紺色のひと

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世界と向き合うこと、子どもに向けるカメラのこと

僕のフィルムカメラ、NikonFEは防湿庫の奥で眠っている。先日引っ張り出したら、露出計の針が動かなくなっていた。電池を換えても駄目だ。


この街に戻ってきた6年前。見知ったはずの土地が全然違うところのように思えて、あちこちでシャッターを切っていた。あの一年のフィルム、自分が撮ったのではないような写真ばかりが残っている。




あの後僕はデジタルカメラを買って、そちらばかり使うようになってしまったのだけれど、妻がたまに「あなたもフィルムを使えばいいのに、私は見たいよ」と言ってくれるので、子どもが産まれる前になんとかしたいなあ、と思っているのだった。



一日いちにち、妻がiPhoneアプリを見ながら「あと○日です」と教えてくれる。



僕はその声を、まったく実感の持てないまま聞き、思い出したように「名付け.txt」を開いてはそこに書き並べてあるものを見比べたりしている。



「子どもが産まれたら、またあの時のように世界と向き合えるだろうか」



仕事の忙しさのせいなのか、太り始めている自分の体を調整しきれていない苛立ちのせいなのか、そういうしょうもないことを考えてしまう。



無事に産まれてくれたら、いやたとえそうでなくても、きっと世界は変わるだろう。でも、自分に原因があることを、外的要因を利用して解決しようなんて、そんなのはあまりに情けないじゃないか?



色々な場面で、「このままではいけない」と思うことが多くなった。それは仕事へ向き合う姿勢であったり、自分の将来のことを考える意気込みであったり、自分のことであったり、つまりはやっぱり、世界に対する覚悟のことだ。



世界は確かに素晴らしい。けれど、もう、世界は美しいとか素晴らしいとか、そんなことだけを無責任に言い放てはしない。なんだかそんな気がしている。



僕はもっと真摯にならねばならないと思う。



躍進の年に、なんて大それたことを祈るつもりもないけれど、少なくとも、自分で自分に「もっとさ、こう、やってやれよ」とはっぱをかけるくらいのことはしてやりたい、とか考えている。





そんな真摯さとか真面目さこそが、僕の目指す大人のあり方であるはずだし、そういうスタンスで、僕もあの腹の中のひとと向き合いたい。