紺色のひと

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水際の記憶

僕の記憶に強く残っているエロマンガのタイトルが「Water's Edge」で、大人になってから再度入手しようと思ったけれどそれは叶わなかった。多分、というかほぼ間違いなくそのマンガとは関係なく、僕の好きな場所は水際になって、出張の隙を見つけては川や海のそばで車を止めて写真を撮ったりしてみている。
なにかに関わった記憶は、時間が経ったあとに「あれはああだったのではないか」と今の自分と結び付けようとしがちだけれど、そういう短絡的でわかりやすい理由付けが、必ずしも正しいとは限らないのだ、と思っている。



一年前に父が親しい友人を亡くして、父と彼をアーノルド・ローベルの「ふたりはいつも」になぞらえて母は淋しそうに笑った。一度そういうことについて考えると、見る写真すべてに死の匂いがつきまとう気がしてやっていられない。そういうときに妻を撮ったりプッセを撮ったりする。


以前縁のあった集落に立ち寄り、深呼吸をする。


声を挙げて僕のほうを見下ろす牛が居て、挨拶を返す。


市内の大学のお祭りがあって、夜になって、光が消えてゆくのを見ている。


行く先が見えない。水平線は見えるのに、写真に撮ると消えてしまう気がする。


カメラの設定を変えて、わざとらしい色の空を撮ってみたりする。



カメラの設定を変えて、わざと寂れた海辺の町にいるように自分をごまかそうとしてみたりする。


カルガモのひなが随分大きくなっていて、親と一緒に川の中を進んでゆく。



あかんなぁ、と思う。思いつめているつもりはなくても、どこかで誰かの陰が僕の裾を掴んで、時たま振り返らされているような錯覚に陥ることがある。



それでも。
たとえ誰かが自分の目の前からうしなはれても、その視線はうしなはれない。たとえば僕は彼女の目を覚えている。



あの場所も覚えている。



そうした記憶の結びつきが、誰かにとっての弔いになればいいし、僕は自分のためにそうしている。


勝手に僕の気持ちを重ねることは失礼にあたるかもしれないけれど、今の僕のなんとも言えない感情を、公陳丸とひまわりに捧げたい。