紺色のひと

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思えば仮の宿

もうすぐ父方の祖母の死から一年になる。
ここにそのことを書くのは、僕が祖母の人生を振り返ろうと思っているからではない。九十余年に渡る他人の生活の軌跡を、こうした形で残すことには少し抵抗がある。
これから書くのはすべて自分のためで、僕にとっての祖母の記憶と、僕にとっての"物心ついてから初めて出席した親類の葬儀"について記録しておこうと思ったからだ。

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30を過ぎてはいるけれど、書いたとおり親類の葬儀に出るのはほぼ初めてだった。
この前は僕が3歳の頃、父方の祖父が亡くなったときで、僕は祖父の頬に触れて「冷たいね」と言ったという。祖父の記憶はあまりなく、ほとんどが成長してから見た写真や、父と母から聞き伝えられた「大学では手に職がつく勉強をしろ」という言葉で構成されたものだ。僕はその言葉を守らずに好きな分野に進み、その分野でご飯を食べるようになったので、結局その言葉通りになったのかもしれない。それはまあいい。

祖母の家には正月に皆が集まり、お年玉を渡しあったり、子供たちがゲームをしたりといった定例行事があったが、いつの頃からかぱたりとなくなってしまった。後から聞いた話を検討するに、いわゆる嫁姑のこじれが元だったようだけれど、その頃既にお年玉をもらう年齢ではなくなっていた僕にとっては、正月の集まりの有無はあまり関係のないことだった。

祖母は亡くなるまで、数年間ほぼ寝たきりの生活を送っていた。病院と介護つき老人施設での暮らしが祖母の晩年ということになるのだろうけれど、僕の父と母は毎週そこに通い、そのことを折りに触れて僕に話した。僕も、二月か三月に一度、子供を連れて顔を見に行った。僕たちの結婚式に呼ぶことができたのは良かったのだろうと思うが、痴呆が進み始めてから僕や娘のことをどの程度認識できていたのか、はっきりとはわからない。生まれて数か月の娘を初めて連れていったとき、「落っことしたら怖いからやめとくよぉ」と言って抱くのを拒んだこと、それでも母に勧められて少しの間だけ膝の上に乗せたことは覚えている。

祖母は家柄の話をよくした。先祖は秋田藩士で云々、祖父の仕事が云々、祖父のそのまた父が以前成し遂げた仕事が云々。僕にはぴんと来ない話ばかりだった。山形に来てから、近所のあの家は20代続いているとか、あの住職は彼で30代目だとか、北海道とは歴史のスケールがあまりに違う話をよく聞くようになり、祖母が拠り所のひとつにしていたように見える「朝居家」というものの重みははたしてなんだったのだろうとか、そういうことを考えてしまう。

祖母の生まれは樺太だった。当時栄えていた町に住み、親戚が樺太で新たに始めた商売は軌道に乗り、今も道内にその会社が残っているという。こういった話を祖母から、そして祖母から話を聞いたであろう母から僕は聞かされていたのだが、そういえば祖母本人の話はあまり聞くことがなかった。


葬儀の場で、謡をやっていた祖母の友人の方々が一曲謡ってくださった。確か、この「江口」だったと思う。(参考:謡蹟めぐり 江口 えぐち

思えば仮の宿。思えば仮の宿に。心とむなと人をだに。諫めし我なり。
これまでなりや帰るとて。即ち普賢菩薩と現れ船は白象となりつつ。
光と共に白妙の白雲にうち乗りて西の空に。
行き給ふありがたくぞ覚ゆるありがたくこそは覚ゆれ。
折々の小謡)より

ここでの「仮の宿」は、僧そして西行法師が一夜の宿を求めたことを意味していると思うけれど、聞いていたときは「肉体から解き放たれるってどんな感じかなあ、そういや高校の部活のヒネた奴が『肉体は鎖』とか言ってたなあ」などと考えていた。


閑話休題。
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母から、「おばあちゃん亡くなりました」と連絡があった次の日、僕は映画を見に行った。チケットあるけどどう? と友人から誘われていたもので、この報せがなかったら絶対に行かない類の映画だった。タイトルは「小さき声のカノン」。予想以上のひどさで、僕は上映中に何度も「ひどい」「やめてくれ」とつぶやき、吐き気と怒りを抑えていたのだが、訃報をひとときでも忘れることができたのは幸いだったかもしれない。
感想を一言で言うと「吐き気を催す内容」で、内容に関する僕の記録はこちらにまとめていただいている。
togetter.com

今読み返すと、どうせ感情的になっているのだから言葉を選ばず作品を罵倒してもよかったな、と思う。それほどひどい映画だった。ドキュメンタリーとはなんだろうと考えた。


さて。


10月頭、飛行機で北海道へ飛んだ。大学に入る頃に買った喪服はサイズが合わなくなっており、特に腹回りがとてもきつかった。
既に祖母は家に戻り横たえられており、死に化粧が施されるところに立ち会うことができた。それが終わり、ぽつりぽつりと親戚と言葉を交わす。夕方に寺へ行き、通夜に出席した。

寝ずの番は散々だった。僕の父と伯父がアイドル談義を始め、僕を含めた孫の男どもが笑いながらそれを煽るという時間が続いた。仮にも霊前だぞと思いながらも、兄に言いくるめられてやや悔しそうな父の顔に僕も笑ってしまった。


葬儀の合間、フィルムカメラで少し写真を撮った。使い慣れない機体だったが、どうしても持っていきたい理由があった。葬儀の場でカメラを手にしていることについても色々と意見のある部分と思うが、こういう場において僕には必要な道具だと思う。祖母の死化粧も、お骨拾いも撮った。ここには載せないでおく。

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一通りのことが終わり、仙台空港へと向かう間、Youtubeで聞いていた曲がある。それが護法少女ソワカちゃん第1話の歌(その3)「はすのうてな」で、多分僕はこの先、誰かの葬儀のたびにこのことを思い出すだろう。涙が止まらない。

はすのうてな 護法少女ソワカちゃん第1話の歌(その3)

何もかもが いつかきっと 失われてしまうけど
久遠に続く何かを胸に秘めて
はすのうてな - 初音ミク Wiki | @wiki

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帰路、仙台駅前で昼ご飯を食べようとしたときのことを併せて記録しておく。


これチャーハンだよね。


祖母の遺品から、形見分けとして指輪をひとつ貰ってきた。三鈷杵が刻まれた軽い金属製で、調べてみると高野山で売っているお守りのようだった。昔旅行で行ったときに買ってきたものなのか、由来はもはや分からない。結婚指輪に添えて、この一年身に付けていた。
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以上、だからどうということもないことばかりの記録。