紺色のひと

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遺すために写真を撮るということ

ここ一週間で、市内で開催されている写真展をふたつ回ってきた。僕にしてはずいぶん積極的に写真に触れている。
ひとつはマッキナフォトで開催されている、杉田協士氏の写真展「犬星展」、もうひとつは大通まち×アートセンターOYOYOで開催されている、OYOYO写真部の写真展「charctor」。ただ「犬星展」のほうは、id:kusamaoさんが紹介されていたこともあってとても興味を惹かれていたのだけれど、日程が合わずにとりあえず店に行ってみたら作品展示の準備をしているところで、床に並べてあるのを覗いた、という状況だったけれど。
それと時を同じくして、camera peopleのSNSに登録してみた。今までさんざん避けていたこのSNSに今更登録したのは思うところあってのことなのだけれど、そのあたりのことを整理する意味も込めて、以下を書く。


どうして写真を撮っているのか、どういうものを撮ろうとしてなにを選んでいるのか、そのあたりのことについて、自分を納得させるだけの明確な説明が必要だと感じている。そして、僕は写真を撮るという行為になにを求めているのか。
ひと言で言ってしまえば、僕は僕を遺すために写真を撮っている。僕の視線や視界、隣にいるひととの空気、訪れた場所、感じた淋しさ。そこにあまり芸術的な演出という意図が入る余地はなくて、ただ写し込めることができればいい。そして、それは困難なことだ。
これまで何度も引用しているけれど、保坂和志が小説「プレーンソング」の中で

「でも、筋って、興味ないし。日本の映画とかつまんない芝居みたいに、実際に殺人とかあるでしょ、それでそういうのから取材してなにか作ってって。そういう風にしようなんて、全然思わないし。バカだとか思うだけだから。
何か、事件があって、そこから考えるのって、変でしょう? だって、殺人なんて普通、起こらないし。そんなこと言うくらいだったら、交通事故にでもあう方が自然だし。
そんなんじゃなくて、本当に自分がいるところをそのまま撮ってね。そうして、全然ね、映画とか小説とかでわかりやすくっていうか、だからドラマチックにしちゃってるような話と、全然違う話の中で生きてるっていうか、生きてるっていうのも大げさだから、『いる』っていうのがわかってくれればいいって」

というセリフを自身を投影した人物に喋らせていて、僕はこれがとても好きだ。私小説を書くときの指針にもなっている。
劇的なことは特になにも起こらなくても僕は生活を続けてゆくことができて、そしてそういうことこそを僕は遺したい。繰り返すけれどそこに演出が入る余地はない。構図だの被写体ブレだのという些事に心を奪われて、シャッターを切るタイミングを逃したくはない。その生活を写し込めようとするとき、僕はあの町で初めて買った一眼レフが一番しっくり来るし、標準やズームレンズよりも広角の28mmがしっくり来る、というだけだ。そして、デジタルで連写するよりは、これだッと思ってシャッターを切るほうが自分の考えていることが伝わりそうな気がする、という理由でフィルムカメラを使う。
その結果、僕が撮った写真を誰かが見て「淋しい」と評したとしても、僕はつまり淋しかったんだと後で知ることになるだけだし、自分が思っていた気持ちが写真を見たひとに伝わるなら嬉しい。
文章に遺せるものなら遺している。遺せないからこそカメラを使うのだし、言葉に変換できないからこそカメラに頼るのだ、と思う。


こんなところだと思う。週末の友人の結婚式には、フィルムカメラしか持って行かないつもりだ。