紺色のひと

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汚れた季節に世界がひらけ、君の名は決まった

三月下旬から四月上旬は、この街が最も汚くなる季節だ。冬の終わりとも春の訪れとも言い切れない、暖かいようなまだ寒いような半端な気温で、道路脇に積もった雪が解け始め、融雪剤を含んだまだらの暗灰色の山があちこちにできる。足元はびしゃびしゃでざりざりしていて、地面が乾くとそれらが舞って埃っぽくなり、大気はかすんだようになる。
僕は昔から、この汚れた季節が大嫌いだった。

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まあ、せっかくだから、一応、言っておこう。
「僕は昔から、この汚れた季節が大嫌いだった。今年までは。」


その日のこと、その後のできごとを時系列で詳細に書くのもなんなので、ぽつぽつと考えたことや周辺のことをメモ程度に残してみる。

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2012年4月10日、僕に娘が生まれた。
ひとつ前の壬辰の年は1952年で、誕生日と同じ4月10日にはラジオドラマ「君の名は」が始まっている。「真知子巻き」でおなじみのヒロインの名前を借りて、僕たちの娘のことを、ここからはマチ子と呼ぶことにする*1
名前を考えはじめたのは妊娠がわかってすぐの頃くらいからだった。最初につくった「名付け.txt」上に、僕がなんとなくいいなと思っている名前、妻がそう思っている名前、僕の家族についている名前、全然関係ない名前、使いたい漢字やことばなどを書き出して、ざくっと絞った。それからが進まず、一週間に一度はファイルを立ち上げるものの、半年以上そのリストが増えることはなかった。
呼びかけとして使っていた名前は別にあって、お腹の中の彼女のことは善知代――うとよ―と呼んでいた。天売島に旅行に行ったときに見たウトウ(善知鳥)の集団帰巣にとてもインパクトがあったのと、ちょうど旅行から帰ってきた頃に妊娠が分かったから、という理由だが、実際にこの名前をつけるわけにもいかないなと思っていた。


名付けはある意味デリケートな話題でもあるので他人に相談することはしなかったが、twitterなどで「顔を見たらなんとなく決まるものだよ」との声を複数の方からかけていただいたので、じゃああんまりキツキツに絞らないで、3つ4つに絞ってピンと来たものから顔見て決めようか、なんて妻と話していたのだが、娘の顔を見ても全然ピンと来ることもなく、沸いてくる感動が彼女の名付けに貢献することもなかったので、結局もう一度ふたりで話し合って決めたのだった。
そう読みにくい名前でもないはずだし、意味も良いし、親戚からは誉められるが、本人が気に入ってくれるといいなと願うばかりだ。

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出産が近づくにつれ、妻は自分の胴回りを一週間おきに計測し僕に写真を撮るようにせがみ、僕の母は大量に肌着やおくるみを作った。母のおくるみは「はらぺこあおむし」をあしらった可愛いものだった。
僕はといえば、父になる実感が強くなる傾向すらも感じ取れず、なんだかふわふわした毎日を送っていた。

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妻が破水した日、僕は会社を半日休んで一緒に産院に行き、午後から会社に出て、また産院に戻り、その日の立会い時間いっぱいまで居て、一度家に帰った。大学を卒業してこの街に戻ってきたばかりの頃に住んでいた学生街に立ち寄り、ラーメン屋で肉チャーハン大盛りと肉味噌ラーメンを食べ、具合を悪くした。


 


翌日の朝方、妻から「はっせんち!でんわいきます」*2とメッセージが入り、僕は車で産院に駆けつけた。

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生まれた日のことは、twitterでつぶやいたものをまとめてもらった以下のTogetterまとめに詳しい。
ある夫婦のある春の日のある出来事 - Togetterまとめ
もげずにがんばれ - Togetterまとめ


出産してから妻は5日間入院していて、仕事を早々に切り上げて毎日産院に通っていた。退院後、妻は同じ市内の実家に帰ったのだが、僕は仕事が急にばたばたと忙しくなり、妻の顔もマチ子の顔も見れずに夜半に帰宅し愛猫プッセにご飯をあげて眠る日々が続いた。
そんなわけで、未だゆっくりと「父としての自分」について考える余裕がない。

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出産した日、その後一週間くらい、車の中でずっと聞いていたのはスガシカオだった。

ぼくのいやしき魂よ ヒットチャートをはしりぬけ
君の明日にとどくがいい いつの日か消えてしまってもいい


D

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いつも感じていた。自分の年齢と、大人であるはずの自覚の間に広がる果てしない溝を。「高校の先輩の年齢をとうに通り過ぎたのに、未だ追いつけない」あの感覚に似ている。
中学生の頃の、そして高校生の頃の自分から見た大人であったはずの24歳を既に過ぎ、仕事をして、結婚して、子どもができて、ついに親になった。それでも僕の自意識に明確な区切りとしての「大人としての自覚」が芽生えたとは思えなくて、それができないままに父親になってしまった。
意識しても仕方がないような気もするのであまり考えないようにはしている。ひとつだけ妙にはっきりとわかっているのは、この意識はある日突然解消されるものではないだろう、ということで、多分しばらく後にこの文章を読んで「そういえばいつの間にか親としての自覚ができていたな」と相対的に認識するしかないのだろう、と思うのでこうして書き残しておく。

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この街の春は遅い。僕たちが入籍した4月29日も、乾いた風が区役所の前に吹いていた。桜どころか、わずかに露出した道路際の地面にフキノトウが覗いているくらいで、上がり始めた気温くらいでしか季節の訪れを感じることができない。それでも、暦でも、気候でも、確かに春は近づいてきているわけで。それを感じることができない自分の感受性を恥じるとともに、「春が来たんだな」と思えるようなひとつの区切りの日としても、娘の誕生日が4月になったことを喜びたい。


……というのも後付けの理由で、僕はとにかく、母子ともに無事だったことに安堵し、それに何より一番の喜びを感じている。様々な危険やリスクを伴う出産というイベントを妻が乗り切ってくれたことに喜びたいし、それを支えてくださった産院のスタッフの方々に感謝したい。
これから育児に際して、こうであったら、とかこうしたほうが、みたいに考えることは多く出てくるのだと思うが、情報の取捨選択をしつつ、妻とふたりで考えながら進んでゆきたいと思っている。

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4月28日、妻が実家から僕たちの哀の巣に帰ってきた。ベビーベッドの組み立てのときから窓際に引っ込んでいたプッセは結局夜までそこに居たが、一夜明けてからは授乳中のマチ子の匂いをかいだり、ベッドの中で蠢く物体を興味深そうに眺めたりしている。このふたりの関係性も良いものになればいいと思っているし、そこに不自然でない関与ができるならばしたいと思う。


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今 風がふきぬける この街で
ぼくは目をこらした
空のずっと先に 夜明けを
見つけようとして…
しばらく ヤミを みつめた


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一昨日、今年はじめてチョウを見た。クジャクチョウという、羽を閉じると茶色で、開くと明るいオレンジにクジャクの羽のような模様がついているチョウだ。僕はムーミン谷の言い伝えを思い出していた。その年はじめて見たチョウが黄色ならその夏は素晴らしい夏になるし、初めて見たチョウが白いチョウなら、その年の夏は穏やかになるはずだった。
マチ子の夏はどんなふうになるのだろう。


僕にも全然わからない。自分の行く末だってわかっていないのに、次の夏がどうなるのかなんてわかるはずがない――と言いたいけれど、父たる僕には、娘の夏を素晴らしいものにする責務みたいなものがあるんじゃないか、と無理やり考えることにして、その算段を練るのだった。





最後になりましたが、出産に際して、当ブログのコメントやtwitterで暖かい言葉をかけていただいた皆様、有意義なアドバイスをくださった皆様に、この場をお借りして御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。願わくば、これからもよろしくお願い致します。
最後に、「何かあるとアサイはすぐこれを引用する」でおなじみ*3、「ムーミンパパの思い出」の一説を引用して当エントリを締めたいと思います。


あたらしい門のとびらがひらかれます。不可能を可能にすることもできます。
あたらしい日がはじまるのです。
そして、もし人がそれに反対するのでなければ、どんなことでもおこりうるのです。
ムーミンパパの思い出 (ムーミン童話全集 3)


*1:もちろん本名ではないが、「君の名は」と別の理由で最後まで迷っていた名前でもあった。放送開始日だったというのは後で知った。

*2:(子宮口が)8センチ(開いた)との意味。

*3:谷川俊太郎宮沢賢治を引用しようと詩集をめくってみたが、やはりしっくり来るのはムーミンであった。