紺色のひと

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掌編私小説「リバーズエンド」



車の少ない国道を走っている。小さな橋を通り過ぎようとしたとき、ふと何かが引っかかって、車を停め川原に降りてみた。礫の大小が揃わず、足元が沈むそこには、わずかに腐臭が漂っている。何かが引っかかったと言ったけれど、この匂いを走行中の車から僕の鼻が捉えたわけではもちろんなくて、多分こういう光景が広がっていることはあらかじめ分かったうえで、それでも僕はここに来たのだった。


産卵を終えたサケがそこかしこで死んでいる。
生きているものも、尾びれは白くすり切れ、体にも水カビが浮いて、ゆっくりと死を迎えようとしていた。


僕は彼らの、この遡上という習性を、自らの生活に重ねて考えてしまうことがよくある。海から入り、目的地を目指して遡り続ける彼らの、一心なその行為のように生きたいと、生きるべきだと、生きなければならないと、そう強く思っている。流れに逆らい続けて、死ぬまで泳ぎ続けることが、僕が行き急ぐなによりの理由なのだと思っている。それは既に強迫観念に近い。
川の流れの始まりを旅の終わりに据えて、河口(リバーズエンド)から源頭部(リバーズエンド)を目指すように生きなければならないと、そう思っている。


視線を落とすと、まだわずかに尾びれを動かすメスのサケが目に入った。目玉はカモメに抉られ、目から赤い帯が水に溶けて流れている。月並みに、血の涙を流しているようだと、それを美しいと思った。
彼女を見ていて、僕はふいに、「いつまで遡り続けていればいいのだろう?」という不安に襲われた。彼女らには産卵という目的が、産卵環境という目的地があるけれど、僕はどうなのだ。生活という名の、人生という名の長い河道が続いていることに恐ろしくなる。
いきものの習性を安直に人間に当てはめた結果に生まれる、「ひととして成長を続ける」とか「ゴールなんてないんだ」とか、そういう類の言葉で言い表される概念とは違って、僕の目指している行く末がこの川の上にあるのかという、先の見えないことに対する不安に近いかもしれない。


サケは、遡上し始めた川を、途中で変えることができない。ある川を選んでのぼり始めたら、どこかを選んで産卵しなければならない。それなりにいい場所を見つけて産卵するさまを、妥協とかソフトランディングに例えることも不可能ではないだろう。しかし最初の段階で、彼らがのぼると決めたその場所は、「自分が産まれた場所だ」と、彼らが身体で感じたところなのだ。


僕はどうだろう。
のぼり始めた川は、僕の生まれた場所に、死ぬべき場所に繋がっているだろうか。


のぼり続けなければいけないことの覚悟はできている。しかし、僕にはまだ、どこで産卵するかを、どこで死ぬかを選ぶ自由が、決める自由があるはずなのだ。
この数年で、僕のひれはだいぶ擦り切れつつある。それでも、選ぶだけの体力を、ゆくすえの選択のための覚悟を、持たなければならないと思う。晩秋の川原で、僕はそういうことを考えている。スーツの上に何か羽織って出てくればよかった。腐臭を胸の奥に吸い込み、小走りで車に戻った。頭が冷え、頭痛がし始めていた。