紺色のひと

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冬の朝に森に出てみようと思った

朝の森を歩きたくなって、物置からスキーを引っ張り出した。細すぎる板とストック、靴を車に積んで、カメラを持って出発した。


僕はスキーが得意だった。高校を卒業するまで随分練習させてもらったおかげで、冬の体育の授業でスキー場に行ったときだけ人気者になれた。スキーに関する自分語りを続けていたら止まらなくなるので割愛する。僕がやっていたのは「基礎スキー」と呼ばれる分野だった。早く滑ることを目的としたアルペンとは別の、「いかに格好よく滑るか」を目的としたものだ。




子供の頃に祖父母に連れられてきた歩くスキーコースに、記憶を辿って到着した。周囲はまだ薄暗く、駐車場に車はない。



体の使い方やその競技の目的は僕に合っていたと思うけれど、とにかく僕はスキーをやらなくなった。この10年でスキー場に行ったのは3回、夏にスキー場に虫捕りに行った回数のほうが多い。
ただ、スキー場に行くことがなくなっても、冬の山や冬の森との縁が切れたわけではなかった。
大学二年のとき、実習で冬のカラマツ林に入ったときのことをよく覚えている。雪の積もった斜面に横たわって、自分が降って来る雪に埋められてゆくのを感じていた。ウェアに結晶が落ちるときのかすれた音だけでなく、雪の上に雪が触れる音すらも聞こえるような気がした。



おや、ハルキゲニアが。



あの感覚は覚えているけれど、同じように静かなこころもちになるには、多分同じような場に身を置かないと駄目なのだろう、と根拠もなく考えた。



そういえば、「何を求めてスキーをするか」と考えたことがなかったな、と今更のように思う。スキーヤーひとりひとりにとって答えの異なるだろうこの問いを、自分に投げかけることすらしなかったのは、僕が子供だったからなのか、そんなことを考える余裕もないほど打ち込んでいたからなのか、よくわからない。それでも僕は上手さを求めていたし、速さを、格好良さを求めていた。誰かは人気を、ライセンスを、級位を、技術を、そして感触を、快感を求めているのだろうと思う。



雪に隠れて水面が見えないけれど、谷地形の底に広がるここは渓畔林だ。シジュウカラハシブトガラエナガがあちこち飛び回っている。



小さい影が木の裏手に回ったらコゲラだ。あちこちでドラミングが聞こえるのはアカゲラ。少し遠くで、ひときわ大きく幹を叩く音がする。多分あれはクマゲラの仕業だろう。



滑ることで何かを求めるのではなく、何かを求めるために滑ればいいのではないか、と僕は思った。トドマツの濃い枝から零れる光とか、ついたばかりのユキウサギの足跡とか、鼻先が痛むくらいの空気とか、そういうものを。



僕が得意だったスキーと、森の中を往くスキーは別のものだけれど、幸い道具もあるし、身体も動くので、とりあえずでかけてみようと思ったのだった。