紺色のひと

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春にならない冬の日のこと

年度末進行がうなり声をあげて僕ににじり寄っているとき、地震が来て、事務所で打ち合わせをしていた僕はとりあえず靴を履いたが、しばらくして僕が今外に出る必要はないと判断して靴を脱いだ。
僕の住む札幌ではあの日から今日まで、ほとんどそれまでと変わらない生活が続いている。仕事にひと段落がついても、東北北関東の友人たちと無事連絡がとれても肩周りの疲労は減らなくて、僕はtwitterに流しっぱなしの自分の言葉が常に上滑りしているのを感じていた。
地震について、今僕は語ることができるだけの言葉を持たないと思う。



仕事からの帰り道、最寄り駅を出ると大気に春が満ちていた。気温は低いけれど、少し湿度が高くて、焦らすような春の夜のあの雰囲気がかすかに流れている。今年は雪の量が多くて、道端の黒ずんだ雪だまりはまだ当分消えそうにないのだけれど、今日「春が近い」と思ったので、冬の写真を少しだけ貼る。見返してみたらびっくりするほど少なかった。それだけ篭っていたということだ。



いつのまにか少女は

いつのまにか青い空がのぞいてる
思いつめた黒い雲は逃げてゆく
君はどこで生まれたの、育ってきたの
君は静かに音も立てずに大人になった
井上陽水「いつのまにか少女は」


正月、中学校の同窓会。札幌に居るときはずっと出てきたが、来年は行くのを止めようと思った。僕が戦場カメラマン氏を知らなかったことを馬鹿にされたからではない。これまで同窓会のたびに感じていた「もういいんじゃないか」という気持ちが抑えきれなくなってきている。中学生の頃好きだった女の子は相変わらずきれいで憂いのある顔をしていたが、店を出てから二言三言喋っただけで終わった。



あの場で騒いでいた彼らと僕のなにが明暗を分けたのか今もわからないけれど、自分が今居るところが明るいほうなのか暗いほうなのかは別段どっちでも良いと思っている。




出先で、ガラスにぶつかって落ちたミソサザイに出会った。部屋の中であったまって少し休むと飛んで行った。ちなみに僕はレメディを与えていない。*1




僕が出張に出ている間、家ではプッセがタオル入れ場を気に入り、我が物顔で収まっていた。これは僕のカメラで妻が撮った写真。悔しいが、ネコを撮るのは妻のほうがずっとうまい。




仕事の姿勢について指摘される。正直なところ、先が見えない。見ようとしているつもりではあるのだけれど、ある段階まで進めるとそこからもやがかかったようになる。僕の想像力の問題なのだろうか、それともただ現実味がないだけなのだろうか?




環境教育イベントで、お泊り会にスタッフとして参加する。山の上まで雪球を押して登り、谷へと転がして落とした。雪だるまの下半身程度に成長したそれを押すのはとても生産性のない行動であったが、一緒に遊んでいた子供たちは喜んでいた。その後に続いて斜面を滑り降りた。




年明けに提出した原稿を読み返した。感情に任せて書くことを求められている気がしたのでそうしたのだが、自分でも驚くほど痛々しくて冷静ではないものだった。感情に任せて書こうとするとき、僕はこれまで哀しんだ自分を想像して彼に書かせているようなところがあったので、その痛々しさは新鮮だった。





同じ写真を何度も何度も何度も何度も撮っている気がする。



地震にかこつけて何かを書こうとするのではなく、湧き上がるような気持ちを言葉にしたり写し込めたりしたいが、とてもそんな気分にならない。上滑りする言葉を自覚しながら、とりあえずこれまで通り書いたり撮ったりしたい。