紺色のひと

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寮私小説『モーニングスター』2.それはまさに明けの明星

誰かが廊下を歩く気配がして僕は身を起こした。同時に頭の奥に腐ったような痛みを感じ、ひでぇなぁと呟いてゆっくりと体を横向きに戻した。曇り空は明るく、枕元の携帯電話に手を伸ばすと二時を過ぎたところだった。床に湿ったふんどしが落ちているのが見えた。
昨晩は寮祭だった。ふんどし一丁になり、日本酒をあおりながら夜の町を練り歩いて、全員で公園の堀に飛び込み、寮の玄関先で神輿を燃やして万歳をして、共同風呂に入って歌を歌ったところまでは思い出すことができた。のぼせてふらふらになって部屋に戻り、そのまま倒れた延長で、人生初の二日酔いに苦しんでいるのだとわかった。
また誰かが廊下を歩いて来て、僕の部屋の前で止まった。ノックの音と、うぉい、と声がしてドアが少し開く。少ししか開かないのは遠慮しているからではなくて、僕の部屋のドアが床に敷いたカーペットに引っかかってすんなり開かないからなのだけれど、ともかく開いたドアの隙間から黒いシャツが見えた。隣の隣の部屋の江国だった。
「どーよ」
「どうにもこうにもだよ、まったく」
頭を振りながら答えた僕に、江国は口の端を吊り上げて笑って見せ、部屋を出て行った。二日目の今日、連中とチョコバナナの屋台を玄関のホールに出すことになっていたから、それの準備を始めたのだろう。
僕はベッドから這い出し、タオルをひっつかんで洗面所へ向かった。




話を始める前に、寮について少し書いておこうと思う。
僕の暮らした金星寮は山形県の西に位置するツロガ市のほぼ中央、若葉町の一角にある。
旧国道から細い道に入り、高校生が軟式テニスをしているグラウンドを左手に、鉤型のクランクを曲がると、街路樹にしては大きすぎる杉の木が立っているのが見える。細い駐車スペースの脇を抜け、ガラス張りの広い食堂の奥にのっぺりと存在している二階建てが金星寮の居住区である。
地図を頼りに訪れるひとはみな、寮の隣にある警察の宿舎を見て「なかなか立派じゃないか」などと言うのだけれど、それではなくて隣のあれだ、と塗装の剥がれた壁を指差すとたいてい少し黙るか、あるいはマジかよ、という顔をして、こちらに気を使って控えめに「人、住んでんの?」と聞く。決まって僕は、物好きな貧乏が五十人ばかり、と答えるのだ。
建物がいつから存在しているのか、僕は結局在寮中に正確な答えを知ることができなかった。今の居住区が建てられたのがおよそ四十年以上前ということはわかっていて、寮祭が四十回を数えていることや、六十五年安保の少し後に起こった学生運動の名残か『共闘』『体制粉砕』という赤字が壁のところどころに残っていることなどがその証拠となっている。
ともかく、四十年以上の間、貧乏な学生を受け入れたり吐き出したりしながら、この愛すべき建物はここに在り続けているのだった。



寮の生活のことをもう少し書こう。
ひとつひとつ、僕の体験した通りに書いてゆくと、暮らした丸三年を費やしてしまうくらいのボリュームになってしまいそうなので、これから始まる寮での生活に心を躍らせている新入寮生に説明するように書いてゆこうと思う。きっとそのほうがわかりやすいし、僕も楽しい。
寮での三年間はきつい・きたない・くさい、の3K生活ではなかったけれど、きれい・きもちいい・くやしいでも感じちゃう、の3K生活でもなかったのだから。できれば僕だって、楽しいことを思い出しながら書きたいのだ。


金星寮は、大学農学部の寮だ。農学部にも女子はいるけれど、実質男子寮として機能している。ちなみに女子寮はない。
金星寮にも女性(女子、というのは先達を呼ぶ言葉としてはさすがに失礼だろう)が住んでいたことがあった、という記録が残っているが、今となっては彼女の暮らしぶりを知るひとは誰もいない。まぁ、それはともかく。
金星寮は、大学の寮であると同時に、自治寮、つまり学生に管理を一任された寮として機能している。寮生は家賃、すなわち寮の使用費として大学に月々一定金額を納め、引き換えに運営の全てを任される責任を負うのだ。
つまり寮内の清掃や維持管理、寮食に至るまで、寮生から選出した委員会を中心とし、寮大会という会議で決議を行って決定する。
とはいえ、四十年の歴史を持つ利点のひとつとして、維持管理運営についてはほぼノウハウが確定し、ルーチンワークと化しているから、一部の委員会を除いては、生活に支障を来たすほどの仕事量はないと言っていい。
もちろん、交代制での電話番なんかもない。


食事の話が出たので、そっちにも触れておこう。
寮で出る食事は寮食と呼ばれている。寮食が出るのは平日の晩御飯で、朝や休日には出ない。一般的な寮生は、朝に自分の部屋でパンなどを食べるか水などを飲み、昼は学食や近所の定食屋で食し、講義を終えて寮に帰って来るとできたての食事が用意されている、という夢のような食生活を送っている。
寮食は寮母さんと呼ばれるひと達が作ってくれている。この寮母さんの正体は近所のおばちゃんで、徴収した寮費から寮母さんへのアルバイト代と材料費を払い、寮母さんがやりくりして食事を作り、それを食べた寮生がアルバイトをして寮費を捻出し、それを寮母さんに払う――という完璧なサイクルが成り立っている。
一食あたりの値段は三百円〜四百円程度に抑えながらも、量は多く味は家庭的で感動的なまでのおいしさで評判を呼んでいる。特に人気の高いメニューはササミチーズカツで、個人的にはかぼちゃのそぼろ煮をプッシュしたい。
余談ではあるけれど、僕は卒業して実家に戻ったのち、寮食が忘れられずかぼちゃのそぼろ煮を母にリクエストした。結果、初めて母の料理に文句をつけ、機嫌を損ねてしまった。寮食はもはや、慣れ親しんだはずの家庭の味すらも凌駕するのである。
寮食を語るにあたって避けて通れない話題がある。それはトウショクである。トウショクのショクは三国志の蜀ではなくてもちろん食事の食であり、トウショクのトウは董卓の董ではなく盗難事件の盗である。
つまり、盗食。
当然のことではあるが、基本的に寮食は事前に申し込みをしている分しか作られず、余分はない。しかし、申し込みをしていると勘違いしてうっかり他人の分を食べてしまったり、うまさのあまり、あるいは空腹のあまり罪悪感を覚えながらも他人の食事に手を出してしまう輩も少数存在する。これが盗食である。
寮食は全寮生にとって毎日の楽しみであり、それが失われる哀しみはなにものにも変え難い痛みである。盗食された寮生は、食堂で自分のぶんがないことに気づき、誰かの間違いでないことがわかると、怒りでわめき散らしながら、あるいは無言で玄関前の伝言用黒板に向かい、

おれのササミチーズカツ盗食した奴出て来い


と書く。メニューの種類や被害を受けた寮生の性格如何に関わらず、この文面はほぼ一緒であることからも、哀しみの深さが窺い知れるだろう。
さて、ここまで読んでもらえれば、あとは生活費のことを書けば大枠は理解してもらえると思う。寮生活を送る学生は、一身上の都合により金銭的に貧窮している者が多い。
ざっと一ヶ月の寮費の内訳を記してみよう。



表-1を参照してもらえればわかるように、一ヶ月の必要経費がなんと一万五千円程度に納まっている。


居住におけるその他のその他の条件としては、

  • ひとり一部屋(六畳)
  • 風呂(共同浴槽にお湯を貯める)が週三回
  • シャワーは毎日使い放題
  • 洗濯機回し放題(共有)
  • 乾燥機も回し放題
  • ガス・水道使い放題(炊事場共同)
  • トイレ使い放題(共同・水洗和式)


があるが、これを踏まえても破格の値段であることは言うまでもない、と思うのは僕だけではないはずだ。昼食を学食で食べても、家賃・生活費で月に三万円あれば生活できることになるから、学費の大いなる助けになること間違いなしである。
僕は寮生活を始めてから部活もテストも恋愛もなにもかもうまくいった試しがないけれど、そんなことより「さぁ、次は君の番だ」!



そんなふうにして僕が金星寮での暮らしを始めたのは今から五年前、二〇〇三年、平成十五年の春のことだった。
大学一年から二年にあがる際、農学部生はキャンパスの移動に伴って、県庁所在地の山形市から別の町に引っ越すことになっている。僕の寮生活は、その引越しからスタートした。
僕の他にも、同期の入寮希望者が数人居た。彼らは全部で八人ほど居たのだけれど、ここではふたりに留めて書くことにする。
ひとりは小花(こばな)だ。彼は僕と同じ学科で、講義もいくか同じものを取っていたから面識があった。入学後早いうちから彼の周りにはひとが集まり、眺めているとひょうきんな人柄の男のようだった。
もうひとりは江国(えぐに)といって、いつも黒い服を着ている目つきの鋭い男だった。初めて言葉を交わしたときのことは覚えていないけれど、ある日僕のアパートにビールを二本提げて訪れ、それが一週間続いて、それから話をするようになった。
僕と小花、江国は二年次から寮に入ることは決めていたものの、その詳しい手続きなどについては誰も知らなかった。ある日江国から、「掲示板に入寮者募集の張り紙がしてある」と教えられ、そこに書かれていた番号に電話をしたのだった。
新入寮生の受け入れを担当していたのは佐崎という、電話を通してでも気弱そうなことが分かる上級生で、ぼそぼそと聞き取りにくい声で、要領を得ないしゃべり方をした。
電話を切ったとき既に不安が生まれ始めていたのだけれど、今改めて思い返してみて、そういえばそんな不安もあったな、と思い出す程度だったのだから、その後の生活に比べれば小さなことだったのだろうと思う。


それを証明するように、入寮初日から僕は、さっそく小さな不安に駆られた。
佐崎に指示されたように僕は荷物をまとめて寮宛てに送り、江国と連れ立って身ひとつで町に入り、寮に向かった。玄関は開け放たれているけれど、周囲に人の気配はない。見学で一度訪れていたとはいえ、春先の曇り空の下、新生活を夢見るにはあまりにおどろおどろしい雰囲気が漂っていた。携帯電話で佐崎に連絡を取り、とりあえず彼と合流した。
彼は小声の早口で喋った。
「荷物はもう食堂に着いてるからね、あのね、今から部屋に案内するから、自分で掃除して、荷物とか入れてね。あと、壁とか壊さなきゃ、改装とかしていいですから。色塗ったりとか」
「色? 自分でですか?」と思わず聞き返すと、佐崎はさも当然というふうに頷き、江国が20号室、僕が22号室であることを告げると、じゃ、と片手を挙げて去って行った。
「……で、食堂ってどこよ」
江国の声で、佐崎が部屋への案内どころか食堂の場所も説明せずに行ってしまったことに気づき、とりあえず寮の中を歩き回ってみることにした。


玄関には靴が脱ぎ散らかしてあった。とりあえず手近にあった誰のものでもなさそうなスリッパに履き替え、僕たちは寮内へと入った。
玄関に入って正面にがらくたが山と積まれた広いスペースがあった。片隅には夏タイヤやバイクが放置してあった。後にそこがラウンジと呼ばれる場所であり、バイク乗りたちの整備場所や車持ちのためのタイヤ置き場、また共用の荷物置き場として使われていることを知った。
ラウンジから右に廊下が続いており、その左右にいくつか部屋があった。住居スペースでないことは雰囲気でわかった。馬鹿でかいテレビが置いてある部屋、自動麻雀卓が置いてある部屋、鍵がかかっていて開かない部屋、共用風呂があり(僕たちは中を覗いて「でけー」「広い」と声を挙げた)、突き当たりの扉を開けるとそこが食堂だった。百畳ほどの空間の半分に長テーブルと丸椅子が並べられ、広い厨房とそこから食事が並べられるのであろうショーケースのような棚、さらに奥には業務用の大きな冷蔵庫があり、一番奥には畳が敷かれたコタツスペースがあった。ガラス張りの格子戸から外の光が入って、廊下とは比べ物にならないくらい明るかった。さっき寮に入るときに見えていたガラス貼りの部屋はここであるらしかった。
荷物は食堂の中央あたり、ガラス窓に寄せて並べてあった。僕の荷物にも江国のにも六十リットルほどの大きなザックがあって、やっぱりと少し笑った。そういえば江国はアパートでも飯ごうで飯を炊いていたのだった。
荷物を確認し、僕たちは指定された部屋に向かうことにした。
再び玄関まで戻り、そこにあった階段を登って二階を覗いてみることにした。食堂と反対側のこちらの棟が居住部であるに違いなかった。登ってすぐの部屋には29号室とプレートが掲げてあったので、僕たちの部屋はこの二階ではなく、一階のどこかにあるようだった。二階の廊下には延長コードや粗大ごみにしか見えないような種々のがらくたが乱雑に積まれていて、さらにこれでもかとばかりに冷蔵庫が乱立していた。廊下の突き当たりの窓ばかりが明るく輝いていた。
そのまま暗い廊下を進むと、窓の手前に炊事場とトイレがあった。廊下を挟んで反対側に居住部とは違う引き戸の部屋があり、覗いてみると、恐ろしい数の書籍と雑誌類が、十畳ほどの広さにうず高く積まれていた。
なんだか積まれてばっかりだなと思いながら手近にあった本を眺めてみると、かなりの割合で猥褻図書、いわゆるエロ本が含有されていて、その他「林業経済学」や専門科目と思しき教科書の類や一般書籍、ヤングマガジンなどの雑誌、新旧様々な漫画、挙句の果てにビデオコーナーまであった。ビデオは当然のようにほとんどがアダルトビデオで、さらにそのほとんどがパッケージのみで中身は空だった。江国が顔で「やれやれ」と言っているようだった。僕はこういう場所が(様々な本が一度に集められている古本屋のような場所、という意味で、断じて猥褻な書籍が多い場所という意味ではない)好きだったので、ついつい部屋の奥まで足を踏み入れていた。そのときである。僕の目にある数字と雑誌名が飛び込んできた。
「おい江国! 大変なものがあるよ! これを見てくれ!」
「なんだよ」
僕が手に取ったのは、知名度では「デラべっぴん」と対を成すと言われるアダルトビデオ専門レビュー誌、「アップル通信」だった。しかしただのアップル通信ではない。背表紙には’94とあるのである。
「つまり十年もののアップル通信だよ! こんなの今どきどこを探してもないよ!」
「はぁ」
江国はいつもの冷めた返答だった。仕方がないので、僕はこの資料がいかに価値あるものかについて、簡単に説明を加えることにした。


――そもそもエロ本やビデオに代表される猥褻メディアは長期保存を目的とした媒体ではない。流行り廃りが激しいうえ、消費者側の(主に物理的な)都合によって媒体自体の回転が早いためである。業界の流行の最先端をゆくアダルトビデオのレビュー誌であるところの「アップル通信」であればなおさらである。
したがって、五年前のエロ雑誌を後生大事に抱えている男などそういるものではない。しかし十年となると話は違ってくる。個人で十年間エロ雑誌を保存しているとなると、もはやコレクターの域に達している。しかし今ここに十年物のアップル通信が存在している理由は、蒐集目的で保存されていたのでは断じてないと考えられる。なぜならば蒐集家がこのような環境にコレクションを放置しておくとは考えにくいからである。
とすればここにアップル通信がある理由とはなにか。恐らくその理由とは放置、言い方を換えるならば「継承」であろう。この部屋が十年間、寮生から寮生へとゆるやかに、例えるなら埃が積もるように受け継がれてきたことに起因していると思われる。
 つまり一九九四年、おれたちがまだ小学生だった頃にここで暮らしていた先達たちが猥雑な妄想を掻き立て、熱き血潮やその他の液体をほとばしらせたその記憶が、今でもこの部屋には根付いているということではないだろうか――。


というようなことを、僕はかいつまんで、かつある種の熱情を持って力説した。また、個人的にはバブル以前のビニ本文化に代表されるような、コントラストが激しい色遣いの、眉毛やその他の毛が非常に濃く強調されているものよりも、むしろ今のほうが好みであるのでそこを勘違いしないで欲しい――というようなことも付け加えたが、我ながら言い訳にしか聞こえなかった。
「……はぁ」
江国は再びそう呟き、部屋を出て行った。僕もそれに続き、自分の部屋を探す短い冒険の旅に戻ることにした。




結局僕たちの部屋は一階の北側にあった。玄関や食堂の窓が南向きなので、北側の住民は夏あたたかく冬すずしい、というある意味理想的な住環境を約束されているのだ、と廊下で先輩から教えてもらった。
当の22号室はというと、部屋中にロープが渡してあり、紙袋に入ったゴミや猥褻図書の類、埃で満ちた無残な状態だった。驚いて江国の20号室を見ると同じような状況だった。
先ほどの廊下の先輩、安東(あんどう)さんに聞くと、現在は寮が定員に達しておらず空き部屋があったこと、空き部屋は近くの部屋の住民が洗濯物干し場として利用していたこと、を教えてくれた。
僕と江国はその日の荷解きを諦め、とりあえず部屋の掃除をして、食堂のコタツにふたりで入って眠った。
翌日、共通の友人の谷口に車を出してもらって近所のホームセンターへ出かけ、ペンキを買った。僕が紺色、江国が黒で、入寮早々僕はテラ・フォーミングを行わざるを得ない状況を楽しみつつ、着実に寮の空気に染まり始めている自分たちを感じていた。
小花は翌々日に寮に入り、その翌々日に講義が始まった。


寮の怪異さは友人たちの間でもさっそく話題となった。朝から晩まで一緒に行動している僕たちになにを感じたのか、同じ学科の藤沢(ふじさわ)という男がその年の秋から、中途での入寮を希望し、引っ越してきた。
藤沢は汚い寮に似合わないほどのいい男、いわゆるイケメンに属す面構えで、自他共に某英国魔法学校物語の主人公に似ていた(もっとも、本人はそれを自虐的なネタとしてしか使わなかったけれど)。おまけに学業成績は優秀でスポーツもでき、向かうところ敵なしかと思いきや、ネコ雑誌を生協で定期購読したり、部屋にラスカルのぬいぐるみを数個保有するなどかわいいもの好きである一方、ものすごい毒舌で聞く音楽と言えばマリリン・マンソンがデフォルト、という、意外性の塊のような男であった。
身なりに気を遣わずいつもジャージに伸びたTシャツでゲームばかりしているけれど中心人物の小花、デジモノとカメラに強く現実的で博識な江国、着流し姿でよく職業坊主と間違われる僕。この三人にネコ好き・完璧超人・腹黒の藤沢を加え、気づけば僕たちは四人が四人とも悪い意味でキャラクター然としている、一種異様な集団となっていた。
不思議なもので、僕たちは講義をさぼることもほとんどなく、至極真面目に大学に通った。ひとりくらいは自堕落で退廃的な道に堕ちてもいいように思うのだけれど(そしてそれは僕か小花なのだろうけれど)、結局そういうことにはならず、僕たちは大学へ通い続けた。




いつからか、寮に一匹のネコが居つくようになった。
寮ではペットの飼育も自由であり、僕が在寮していた三年間だけでも、ネコ、犬(「モモ」という名のゴールデンレトリバーだった)、ウサギ、フェレット、熱帯魚など多種多様な高等生物が寮生の庇護の下にあった。
僕たちが三年生になった年の秋、誰かが一階の廊下に茶トラのネコが入り込んでいるのを見つけたのが始まりだったように思う。寮内を追い回し、捕まえてかわいがりを行ったりしたけれど、彼は懲りずに寮に入り込んで炊事場に溜まった水などを飲んでいた。
ある日藤沢が安い固形エサを買ってきて通り道の廊下に置くと、彼は次の日からそこにいるのが当たり前のように通い始め、いつしか廊下の端の裏口から出入りする、寮内公認の所属ネコとなった。
僕たちと仲の良かったヨシミチという後輩の名を取ってネコを「ヨシミチ」と呼んでいると、当のヨシミチが
「さすがにそれは勘弁してください、人間の尊厳というものがあります」
と常識人のように当たり前のことを言うので、おかしくなった僕は、それじゃあお前はヒトミチだ、それでこっちが(と言ってネコのほうを指差した)ヨシミチ、それでオッケーだろ、と言った。
「シゲオさん、ほんと勘弁してくださいよ」
いつも穏便なヨシミチががんとして譲らないので、僕はヨシミチと呼ばれていたネコに「ネコミチ」という名を与え、以来それが定着した。
ネコミチはその後すっかりマスコット的存在として扱われるようになり、冬の到来に伴い寮内で過ごす時間が増え、藤沢と江国が面白がってエサをどんどん食べさせるものだからぶくぶくと太って、いつの間にかでぶネコとなった。彼の写真ばかりで構成された江国監修「ネコミチカレンダー」は今年で発刊三周年を迎える。


さて、これでようやく、役者が揃った。僕の記憶を語るには最低限、僕を含めたこの四人と一匹が必要だ。
小花、江国、藤沢、そして僕。後輩に笑いながら「一階の四天王ですね」と呼ばれるには、入寮から三年の後、僕たちが卒業式を終えて引越しの準備をしているときまで話を進めなければならないのだけれど、それはまた別のお話だ。



3.四天王、来札



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