紺色のひと

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表現者と僕2

自分用のメモ。

同年代のひとが僕にできないことをしているのを見るととても嬉しくなる。絵を描くひとを見ると特にそう思う。と同時に、自分が持っている少しばかりのものにはなんとなくプライドめいたものがある、と気づいた。自分に対する自信から来るものではない。しょせん宴会芸程度でしかない幾多のスキルに自信が持てようはずもないのだ。
紺色のひと

僕は、映画や演劇という映像を使った総合芸術にとても大きな期待をしているのだな、というのがよく分かった。自分が選んだのが文章であり、たまに写真であり、さらにたまに音楽であって、それらは視覚や聴覚の一部分から他人に訴えかけるものであるのに対し、文章も映像も音楽も一緒くたに使えるなんてすげぇのができるに決まってるじゃん! 頼むぜ! と思っているのだ。
(中略)
僕が歳の近いひとの芸術作品を好んで見たり読んだりするのには理由がある。僕の中には芸術という言葉で区切られるなにかに対する欲求が確かにあって、絞りきれずそしてサラリーマンとして日々を送っている自分に対して、これでいいのか、いいんだと言い聞かせながら生きているのだけれど、たまに歳が近いひとの創り出した作品を見ると、おれも頑張らなくちゃ、やれるぞ、という気分になって、その高揚感がたまらなく好きなのだ。
紺色のひと

はっきり言葉にしてしまうと、僕には創造的な能力なんてないのよ。持ちえる全ての技術においてそう。だからこそ僕は小器用にこなす技術を磨いてきたのであって、やれ文章だのやれ音楽だのやれスポーツだの、そういうことに対して僕が、これなら力を発揮できると心底思ったことはひとつもない。というか、そんな力はない。
それでもなんとかやってしまえるから、長い間それを表現と勘違いしてきたけれど、これはあふれ出る表現ではなくて、心や頭の中から絞り出した、思考や行動の残滓だ。そういう自分のためのことを、僕は才能とか表現とは呼びたくない。
紺色のひと