紺色のひと

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ガンジツ川のほとり

2008年の瞬間は例年通り神社へと向かう道の途中で迎えた。年が変わる瞬間に地球上にいなかったんだぜ、と時計を見ながら飛び上がっていたのはいつ頃までだったろうと考えたけれど、意外と最近までやっていたような気もして、自分の成長を感じるには適さない記憶だと思ったのでそれ以上思い出すのを止めた。
初詣は毎年、近所に住む父母の友人一家と出かける。そこの家には僕の幼馴染であるところの同い年の男がいて、僕たちは例年通りの近況に加え、お互いの仕事の話や彼が働いている茨城の気候の話をする。彼の父は趣味人でギターもカメラもやるひとなのだけれど、息子がそちらに傾かないせいか、元旦に会うと写真の話や最近ギター弾いてるか、といった話を僕に振る。壁はそんなに厚くないけれど隣もうるさくないし、たまに爪弾く程度ですよ、と答える。すると使っていないから、と部屋から小さい電池式のアンプを出してきて、引越し祝いだと僕にくれた。


来客があったりなんだりでその日は一日家にいたのだけれど、僕はテレビの音が、常に付き続けているテレビの音が耳障りでどうしようもなくなり、晩御飯を食べるまでなんとか我慢して、食べ終わるなりエレキギターとアンプを抱えてアパートに逃げ帰った。見るひとがどうのとか、番組の内容がどうのというよりも、もう僕は付き続けているテレビに恐怖すら覚えるようになってしまっているのだ。
さあ、さあ、新年にふさわしい言葉を。

ムーミンパパの思い出 (ムーミン童話全集 3)

ムーミンパパの思い出 (ムーミン童話全集 3)

あたらしい門のとびらがひらかれます。不可能を可能にすることもできます。
あたらしい日がはじまるのです。
そして、もし人がそれに反対するのでなければ、どんなことでもおこりうるのです。

二年前はこれを旅立ちの言葉として使った。僕は今年、どうする。