紺色のひと

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熊森関東支部の「春にもドングリをまく」案に反対します

「飢えたクマに届けるため森にドングリを運ぶ」という、生態学的に非常に問題の大きい活動を行っている日本熊森協会には、全国にいくつもの支部があります。このうちのひとつ、関東支部にて12月5日に行われたという定例会の内容を支部のブログで読んで、僕はとても驚きました。ただでさえ環境への悪影響が指摘されている活動をさらに継続しようという意見がそこに書かれていたからです。
本エントリでは、日本熊森協会(以下「熊森」)で実施した(そして一部地域では今も尚継続中の)ドングリ運びを改めて批判し、さらに関東支部の「来年度やりたいこと」――春に再度ドングリ運びを実施すること、など――について思うところを書きます。


【ドングリ運びをしてはいけない理由】

熊森が今秋実施した通称「ドングリ運び」は、「食糧が無くて人里に出てこざるをえないクマをはじめとする山の動物たちに届け、人間のところに出てこないようにする」ための活動だそうです。このドングリ運びは「山の実りの凶作年に、ドングリを運び、クマが人里に出てきて殺されないようにすることは、餌付けとは全く別のものです」とされ、無計画な餌やりとは一線を画すものであると主張しています。


しかし、ドングリ運びが初めて実施された2004年から「クマを助けるどころか生態系に悪影響を与える」として各所*1から批判されています。
なぜかというと、ドングリ運びが「森林生態系、他の動植物、クマが出没する地域に住む人間」にとって問題のある行為であるだけでなく、「クマを助けるための活動としても効果があるか疑わしい」行為であると思われるからです。
具体的には、

  • ドングリ運びは「本来そこにあるはずのない餌を野生動物に与える=餌付け」であり、動物にとって人間との距離感を失わせる危険な行為であるということ
  • 人里近くに餌を持ってくることで、山に返そうとしているはずの運動がむしろクマを人里に近づけてしまう可能性があること
  • 都会の街路樹・公園など別の場所にあったドングリを山に持ち込むことで、ドングリについていた虫や他の土地のドングリそのものにより、生物多様性を守るうえで非常に重要な地域固有の遺伝子が失われる可能性があること

などの観点から批判されています。
僕は熊森ドングリ運びを、特に”野生動物への餌付け”という点からクマと人間の双方にとって問題がある活動だと感じています。



【熊森さん、来年ドングリどうするの?】

話を関東支部のブログに戻します。12月の定例会では、来年度の活動について意見交換が為されたようです。その中で非常に問題のある記述があったため、以下に引用します。

○ドングリを来年の春にもクマに食べてもらう。
冬眠からクマが出てきたときにも食べられるように、保存しておいてまた撒く。撒く人に保存してもらうか各人が保存しておいて撒くときに送るかは考える。

12月5日の定例会の報告です。−熊森 関東支部ブログ同ウェブ魚拓)より引用


熊森では「ドングリ運び」をクマに対する食糧援助と位置づけ、凶作の年の「緊急避難措置」として実施していたはずです。(→
日本熊森協会 知らせたい事 > どんぐり運びについて同ウェブ魚拓))
また、10月末までは「11月の猟期が始まるまで」としていたドングリ集め・運びを「クマたちが冬眠できるまで」と継続し、現在もなお全国からドングリを送るよう呼びかけています。ただでさえ問題のある餌付け活動を何の説明もなく延期した挙句、今度は「冬眠明けのクマに届けるため」と言い換えて継続しようとしているように思えます。いくら「餌付けではない」「給餌だ」と主張しようと、そこにないはずの餌を人間が持ち込む以上、それは餌付けに他なりません。また環境省などによる給餌は、餌の量や散布場所などが厳しく管理されており、「初心者でも簡単に行える」ドングリ運びなどとは全く異なる性質のものです。給餌はそんなに甘いものではないのです。


さて仮に、秋に大量に集めたドングリを腐らせず、病原菌を発生させずに保存し、今秋のように山に運ぶことができたとしましょう。春先の山のあちこちに、10キロ20キロのドングリの山ができることになります。凶作だったはずの翌年に、芽も根も出さず大量に積まれたドングリ……。これが不自然でなくてなんでしょうか? 本来であれば山菜や若芽を食べる時期のはずですが、随分と食べ応えのありそうなドングリがそこかしこに山積みに。ここまでするのなら、ペットフードでもさして変わりはありません。
ペットフードなら良いと言っているのではもちろんなく、この活動はクマにペットフードをあげて「お腹が一杯になったね、よかったね」と自己満足しているだけのものだと言いたいのです。それで、この後クマはどうなるのですか? あるはずのなかったドングリを探し求めるのですか? そうしたらまたドングリを運ぶのですか?
……いつまでそんなことを続けるつもりですか? クマはあなた方のペットではありません。自立して生きる野生動物なのですよ。


この僕の言葉は、何も「春にドングリをまくこと」だけに限ったものではありません。ドングリ凶作の秋に「山のあちこちにドングリの山がある」ことだって不自然すぎるくらい不自然です。そこにあるはずのなかったドングリをまくこと自体が餌付けであり、それをクマが食べてしまった時点で、クマは野生ではなく、人間から餌をもらって生き延びた個体になってしまうのです。この「不自然さ」は、「野生」や「原生」を尊ぶ熊森の考え方と大きく異なるもので、矛盾をはらんでいると僕は感じるのです。


また、冬眠明けの春季はクマの活動が活発になる時期です。そんな時期にドングリを抱えて山に入り、万が一、人身事故などが起こってしまったら大変です。ドングリ運び自体が、非常に人的被害リスクを伴う活動であること、春季はそのリスクがさらに増大することを今一度考えるべきでしょう。(しつこいようですが、リスクが低い時期ならドングリ運びをしていいという意味ではありません)



天皇陛下にお願い!】

関東支部の今後の活動について、もうひとつ興味深い記述がありました。

ツキノワグマを天然記念物に指定させて保護する。
ツキノワグマを天然記念物に指定する運動をする。天皇陛下に手紙を書いて、クマのことを知ってもらい保護するよう動いてもらう。

12月5日の定例会の報告です。−熊森 関東支部ブログ同ウェブ魚拓)より引用

ここで言う「天然記念物」とは、文化財保護法によって規定される重要な野生動植物の種で、「学術上貴重で、わが国の自然を記念するもの」が指定されます。本法は文化庁の所管となります(→天然記念物について−ぷてろんワールド)。
指定においては、

  • 日本特有の動物で著名なものおよびその棲息地。
  • 特有の産ではないが、日本著名の動物としてその保存を必要とするものおよびその棲息地。
  • 自然環境における特有の動物または動物群集。
  • その他「日本に特有な畜養動物」「家畜以外の動物で海外よりわが国に移殖され、現時野生の状態にある著名なものおよびその棲息地」「特に貴重な動物の標本」

などの条件を満たすことが必要です(→天然記念物指定基準−文部科学省)。
現在天然記念物に指定されている大型哺乳類としてはカモシカが挙げられます。ちなみに指定されると、該当種の捕獲などは文化庁の許可なしには実施できなくなります。熊森はこの「ツキノワグマの天然記念物指定」を勝ち取ることで、彼らが憎む「捕殺の阻止」そして「個体の保護」のメリットを得ようとしているのかな*2――と僕は考えましたが、それはともかく。
他の天然記念物指定種、トキやオオサンショウウオなどと比べて、狩猟獣でもあり、国内生息数が1万〜1万数千頭とも言われるツキノワグマが天然記念物指定の要件を満たすか、つまり「学術上に貴重である」かについては未だ不明な点が大きいように思えます(もちろん、今後指定される可能性は十分にあるとも言えます)。何より、毎年のように山あいの集落に出没し、人的被害を発生させている種について、人命救助の妨げになりかねない指定が為されるかは疑問です。


また、この記述で気になるのは、「天皇陛下に手紙を書いて、クマのことを知ってもらい保護するよう動いてもらう」というくだりです。
天皇家は動物・生物学に関する研究者を輩出しておられます。特に今上天皇は魚類(ハゼ)の研究家であり、現在日本国内で在来魚に影響を与えている外来魚ブルーギルを最初に国内に持ち込んだ御本人として「心を痛めて」おいでです*3。在来の動植物への影響が懸念されている熊森のドングリ運びについて色よいお返事が頂けるかは僕にはわかりませんが、上記のエピソードをお持ちの陛下に「クマのことを知ってもらい保護するよう動いてもらう」とは、なんとも思い上がっているなぁ、という印象です。
さらに付け加えれば、天然記念物を指定する文部科学大臣は内閣に属し、天皇陛下と関係はありません。僕の知る例では、環境保全活動に関わる子供たちが時の内閣総理大臣に陳情し、当時の国土省がトップダウンで動いて無事目的が達成された、というものがありますが、どうして天皇陛下なのか甚だ疑問です。
……いえ、疑問と書きましたが、こういった政治的な動きが何かを達成するうえで非常に重要となってくるのは理解しているのです。それならば、せめて自分たちの活動に学術的な根拠を用意するとか、提示された批判を無視せず真摯に対応するとか、そういったことを詰めてから行えばいいのにな、と僕なんかは思うのです。
「運ばれたドングリをクマが見つけて食べることができるのですか?」→「追跡調査の結果、各地でクマがドングリを見つけ、食べていることが痕跡やフンからわかりました」なんて文言を団体の公式webサイトに載せて、質問に答えた気になっているようでは、あまりに稚拙に過ぎます。




【残念なあまり僕は笑った】

さて、この関東支部のブログを見たとき、僕は思わず笑ってしまいました。不謹慎だと思う方もおいででしょうが、僕は笑いを堪え切れませんでした。あまりに情けなくて、笑うしかなかったのです。
だって、いい年した大人が、善意で、大真面目にこんなことを話し合っているのですよ? 「もうすぐ冬眠だから、春に目が覚めたらお腹一杯食べられるように、またドングリを届けてあげよう」 もちろん、実際にどんな議論が行われたか、僕には知る由もありません。
でも、僕は思います。大人は、子供が「クマさんかわいそう、餌あげたい」と言うのを聞いて、「クマさんは人間の手を借りなくても生きてゆけるんだよ」「餌をあげたら、クマさんのためにならないんだよ」と諭す役割を担っているのじゃありませんか? 少なくとも、僕は自分が関わっている環境教育の場で、子供にドングリ運びのことを聞かれたら、問題点をできるだけわかりやすく教えて、「やらないほうがいい」ということを言葉を尽くして伝えようと思っています。
善意だから素晴らしいなんて、僕には思えません。反対意見が多くあるのに、団体から言われた都合のいい屁理屈を信じて批判から目を背け、結果が伴うか検証もせずに「行動することこそ尊い」とドングリを山にまいて何か良いことをした気に、命を救った気になっている、 こんなものが大人の姿でいい訳がないでしょう!
「ドングリを山に置いてくる」=「山に生ゴミを捨ててもいいんだよ」と子供に言うのですか? 「遺伝子攪乱は既に完了しているからドングリ運びには問題がない」=「もう汚れている場所ならゴミを捨ててもいいんだよ」と子供に言うのですか?
僕は同じ大人として情けない。泣きたいくらいです。




【熊森の活動に対する、これまでの僕の主張・まとめ】

最後に、この熊森ドングリ運びに関連した、僕のブログエントリを紹介します。興味のある方はお読みいただけると嬉しいです。
また、熊森関東支部の皆さん、そして本部の皆さん。この記事をお読みいただけるかわかりませんが、ブログ上やメール等で、何らかの反応を期待します。同じ大人として、クマの保全が重要だと考える者同士として、春に再度ドングリ運びをするような愚行は、考え直していただけないでしょうか?



野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ
飢えたクマに餌を届けることが、本当にクマのためになるのだろうか?」というテーマで、自然保護観について考えました。

  • 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
  • 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
  • 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?
  • 「(ドングリ運びがたとえ)焼け石に水でも、1日1頭のクマを救うために」活動を続けているそうですが、人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?

絵本「どんぐりかいぎ」で学ぶ熊森ドングリ運びの問題点
かがくのとも絵本「どんぐりかいぎ」を読み解き、種子の繁殖戦略からドングリ運びの問題点を指摘するとともに、代案の必要性について考えました。

「どんぐりかいぎ」では、ドングリが凶作の年には、何らかの理由で増えすぎた動物たち――リスやネズミ、それにクマ――を少し減らし、適正な個体数に戻す役割がある…とされていました。そこにドングリをまいてしまうとどうなるでしょう?
ドングリ運びは森全体にとって「余計なお世話」であると言えるのです。
自然保護や環境保全を考えるにあたっては、その場で死にそうになっている命を救うことよりも、その命が継続的に生きていけるための環境そのものを守ることを考える必要があります。「緊急」「お腹をすかせたクマ」「かわいそう」などの言葉に惑わされ、ひとつの命を救うことにこだわりすぎると、そのせいで失われるたくさんのものが見えなくなってしまうのです。

「クマがかわいそうだから殺さないで」と感じる皆さんへ
僕の体験談と、山里に暮らす方の手記から「クマはかわいいだけでなく恐ろしい動物でもある」ことについて考えました。

想像して、考えてみて欲しいのです。実際にクマの被害を受けている方にとって、「クマを排除して欲しい」という願いは不自然なものでしょうか? 自分の命や財産が失われる危機が迫っている方に対して「クマの命の大切さ」を説くのは、はたしてどのような印象を与えるでしょうか?
クマはとても愛らしく、命にあふれた力強く美しい生き物です。そのクマが捕獲されたり殺されたりすることには、何かしらの理由があります。「かわいいから」「かわいそうだから」と言う前に、クマの恐ろしさについてもよく知り、想像力を持って対策を考えてゆくことが必要ではないでしょうか。

*1:僕の知る限り、批判を行っているのは自然愛好家や他の環境保全団体、大学教員などの知識人、そして僕のような自然好きのブロガーなど様々です。

*2:なお、天然記念物が「種」として指定された場合、生息環境の改変などに制限はかからないため、ドングリ運びを行うのに許可は必要ありません。……邪推です。

*3:第27回全国豊かな海づくり大会 平成19年11月11日(日)(滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール)