紺色のひと

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晩秋の川、奔流の川、逆流のひと

一枚の葉が流れの中に揉まれているのを想像してみて欲しい。川底や岸沿いをきりきりと舞って、水面近くにふわりと上がってきたところをそっと掬いとる。これは、僕が感情を言葉にするイメージだ。拾い上げるというよりも、掬いとるという言葉が似つかわしい、と僕は思っている。

対して怒りや憎しみという負の感情は、同じ水でも違ったイメージがある。秋、落葉の季節、川岸や水底を埋め尽くすほどの落ち葉が濁った水と共にごうごうと流れている。僕が腕を流れの中に差し込むと、濡れて柔らかく、破れて黒ずんだ落ち葉がべっとりと掌に絡み付く――そんなイメージだ。振りほどこうと腕を振ると、びしゃっと水面に叩きつけられてあっというまに下流へと流されてゆく。澪筋に立ち尽くす僕の足元には、振り払ったものの何倍もの落ち葉が絡みついてゆく。

僕がもっとも怒りを覚えることは、自分自身のやるせなさや不甲斐なさだ。どうしてできない、どうしてやらない、という苛立ちや、知識や知恵が足りないことに対する憤りが常に渦巻いている気がする。常に、といってもそれが表に出てくるのは「できないこと」「知らないこと」に気づいた瞬間だから、なにかに当り散らしたりすることはあまりなくて、せいぜい不機嫌そうな顔になるだけだ、と思う。それでも、能力の低さというか、ナニモノにもなれずにふにゃふにゃとやり過ごしている自分に対する怒りは常に、本当に常に抱えていて、それがある種の原動力となりさえしている。

その怒りのイメージに、僕はひとつの救いを見出した。水の冷たさに足が動かなくなったり、落ち葉を振り払うのに疲れて膝をついたりはするけれど、僕はそこで「万物流転」とか「流れに身を任せよ」とか「れっといっとびー」とか、そういうヌルいことを決して言わない。足元の水を撒き散らしながら、僕はただ上流を目指している。源流に辿り着きたいのではない、ただ流れに逆らっていたいのだ、とわかったのだ。それはもう盛大に、ばしゃばしゃと。