紺色のひと

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あの日、夏の終わりに、10年後の8月また会えると信じた僕達などいない。

「10年後の8月」を迎えた彼女らの曲に関する自分語りを通して、世界といかに向き合うかを改めて考えてみただけの文章。自分勝手で傲慢な祈りのために、この恥ずかしい独白をここに残すものである。




10年前、僕はまだ高校生だった。
学校へ行って、授業を受けて、溜まり場だった地学教室に顔を出して、私小説の原稿を持って文芸誌の編集機関の部室に入り浸って、受験勉強に飽きたクラスの友人と遊んだりしていた。
学校へは徒歩で通っていたから、大抵夕方遅くまで学校に残って、何をするでもなく校舎内をぶらついたり、窓に腰掛けて空を見ていたり、何か面白そうなことがないかと探しているような毎日だった。学年全体が受験を意識するようになった3年生になってもそれは変わらなくて、ゆかいな後輩たちと遊んでいた。とりあえず勉強をしている振りをしながら、それでもちょっとはしないとまずいし、と放課後に過ごす場所が自習室にシフトしつつも結局やることは自習室の黒板に落書きをしてみたり、やっぱり変わらなかった。生まれて初めてできた彼女に5月に振られて、やっぱりゴーグル越しじゃないと駄目なのかなぁと失恋に浸ったりしてもみたけれど、わあわあ遊んでいるうちにそんなこともどうでもよくなっていた。

どうせ机に向かっても考えるのは受験勉強のことなのではなかった。やらなければならないということは自分でも分かっているつもりだったが、頭が働かず、体が動かなかった。その代わり、これじゃあ落ちても仕方ないな、と思いつつも大学生の自分を思い描いていた。合格(うか)る前から後のことを考えて何になるのだろう、とも思ったが、考えてでもいなきゃやってられないよな、と皆で言い合う日が続いた。しかし、私は自分にはそんなことを言う資格がないこということに気付いていた。

自分に全てかかっている。問題は、目標のために何をどこまで自分がやれるか、ということだ。その後のことなど考えたこともない。
大げさに目標、と言ったけれどそんなものはなくたってかまいはしない、と思う。たまたま到達点が自分に見えているから目標なのであって、たとえ見えていなくてもやりたいことをやってさえいれば良くも悪くも結果として後からついてくる。やりたいことが別になければないでとりあえずは進むしかないのだ。
ゆっくり進むことはできても、同じところに留まり続けるのは果てしなく難しい。


●●●●●●●「さよなら、窓際のヒトデたち」


進路とか、友人とか、学校とか、考えるべきことはたくさんあったはずなのに、自分の身の回りのことにしか手が届かなくてもどかしい気持ちを抱えながら、それでも何かしなければいけないという焦りみたいなものに追い立てられていたように思う。




ともかく、そんな10年前の、8月。
彼女らがテレビに出てきたのは、ちょうどその頃だった。

あの日 夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない
10年後の8月 また出会えると信じて…


2001年8月8日、彼女らはデビューした。その曲は大ヒットし、熱心にテレビを見るわけではなかった僕でもしょっちゅう曲を聞くようになった。その曲を聞くまで彼女らのことは知らなかったけれど、自分と同世代で、北海道出身という存在は、もしかしたら自分の「何をするでもない焦り」みたいなのを代弁してくれるのかも、と期待していたのかもしれない。
初めてあの曲を聞いたときの感情はよく覚えている。
僕は激怒した。



あれは確かに憤怒だった。



次の瞬間から、僕はあの曲と、それを歌っている彼女らを憎むようになった。
何がそんなに気に入らなかったのか、いくつか理由はあったのだけれど、今も思い出せる一番大きな憤りは、「あの曲を歌っていた彼女らが若かったこと」だった。
僕は当時、何か根拠のない自信に満ち溢れていて、同年代の人間の中では自分がとても優れていると思い込んでいた。その幻想を抱く一方で、自分がまだ若く幼いという自覚はひどく強く持っていて、「この年齢で語っていいことと悪いこと」の区別を頑なに守ろうとしていた。それこそが「過去を振り返って感傷に浸ること」そして「したり顔でそれを総括すること」だった。
つまり僕にとっては、10年そこらしか生きていない彼女ら(そして「僕」)が、昔を思い出して「あの頃はよかったよね」とか「あのことを思い出すとせつないよね」とか歌うこと自体が許せなかったのだ。その浅い経験で「せつないよね」とか何様だ、なんてテレビに毒づき、しまいには彼女らが出てくると画面の前から離れるようになり、聞こえてくると耳をふさぐようになった。


僕の憤りはそこで治まらず、「あの曲が嫌い」から「あの曲を歌っている彼女らが嫌い」になり(「ホワイトベリーのほうがいい、学業優先だし」みたいなことももちろん言った)、ついには「彼女らの顔が嫌い」にまで辿り着いた。
その頃、僕は既に高校を卒業して、本州の大学に進学していた。学科内で友人もでき、部活も始めた。仲良くなった女の子と少しいい感じになったりもした。けれど、その子とは、ああその彼女は! そう、「彼女らの3人を足して3で割ったような顔」をしていたのだ! 今改めて考えても、彼女は「彼女ら」の誰よりも可愛かったし、第一彼女は僕が憎んだ「彼女ら」ではない。しかし僕にはそんな当たり前のことが理解できず、冷たく当たってしまった。
もうどうしようもない。



また出会えると信じた僕などいない。

そして、10年後の8月。
あるアニメが、エンディングテーマ曲として「あの曲」をカバーすると聞いた。もういいだろう。もういい加減にしてやってくれ。僕は10年越しに、あの曲を聞くことにした。




ああ、いい曲だったよ。好きにはなれないけれど、いい曲だったよ。



ふりかえり

僕にとって、彼女らの歌は呪いだった。
僕の自意識と過剰反応を起こし、得体のしれない怒りを生み、なんの関係もない友人を巻き込んだ。言うまでもなく、僕が全部悪い。わかっている。
その呪いを生んでしまったのは、ただ僕が、「世界は素晴らしい」なんて大真面目に主張していたあの頃の僕が、その素晴らしさを信じ切れていないガキだったからだ。
僕が世界を愛するためには、身近に憎むものが必要だった。それは流行りの音楽だったり、誰かが好きだと言っていたテレビ番組だったり、子供っぽい天邪鬼さを満たすだけの距離感のあるものを選ぶより他なかった。ゆずが憎い。19が憎い。モンパチが憎い。僕は自分の自意識を確立すべく、好きなものを挙げるのと同時に、嫌いなものを強く打ち出すことを覚えた。


憎かったものが、少しずつ赦せるようになったきっかけはよく覚えていない。けれど、高校を卒業して大学での生活を送るうち、怒りに向けていたエネルギーはだんだんと別のものにシフトしてゆき、心は穏やかになっていった。今まで憎かったはずのあれこれに直面したとき、「あれ、それほどでもないかな」と思えるようになったのは、年齢のせいなのか、周囲のおかげなのか、環境のせいなのか、そんなことを考えている余裕がないほど楽しかったせいなのか、それはやっぱりわからないけれど、18から19になる頃、僕の中の世界に対する憎しみはほぼ鎮まった。


赦す、なんて大それた言葉はあまりしっくり来なくて、物事に対するときに悪いところから見ようとしなくなった、という言い方のほうが正しく捉えていると思うけれど、そうやって世界と向き合えるようになった今でも、憎いものや憤るもの、許せないものはたくさん存在する。それは僕にとって守りたいものや譲れないものがあることの裏返しだから、この憤り自体は大切にしていきたい。
僕の好きな言葉に宮沢賢治の

かなしみはちからに、
欲りはいつくしみに、
いかりは智慧にみちびかるべし。

というのがあって、僕がこの言葉を文字通りの意味で捉えているのは、どんな心構えをもって他人や環境、ひいては世界と向き合ったとしても、僕の感情が負に振れることは必ずあるから、せめてその感情の振れ幅を糧に良いものへ結びつけていきたい、というある種脅迫めいた自分への還元が大元にあるからだ。僕の心を乱すものは日常的にたくさん転がっていて、たとえばwebを通じてでもそういうもの――ニセ科学の主張だったり、不安をばらまくひとびとの無責任な言葉だったり――はすぐに採集できてしまうけれど、そこで感じた怒りや憤りを原動力にしながら、それで前に進んでいかなければ、と強く思う。


こう思えるようになったのもここ数年のことで、19の頃くらいで転換をはじめた僕の精神性は多分まだ幼稚なままだ。それでも、僕が「憎んだ」とまで思えるのは彼女らが恐らく最後で、この先も現れないことを切に願う。
そういう意味で、僕にとって彼女らは特別な存在であり続ける。一度も好きにならなかったけれど、特別な存在であり続ける。誰かに対して、声も聞きたくない、顔も見たくない、言葉を目にすることすら耐えられない――そんな暴虐な感情を振り回すのは、これで最後にしたい。負の感情の振れ幅があるなら、せめて理不尽なものではなく、理由あってのものであることを願いたい。



そういう自分勝手で傲慢な祈りのために、この恥ずかしい独白をここに残すものである。