紺色のひと

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僕と古本屋

僕にとっては、本とは読むものであり、所有するものです。必要以上に神経質に扱いもしないし、鞄のなかにそのまま放り込んで、文庫本のカバーがぼろぼろになるのも当たり前です。「読むなら欲しい」ので、図書館で借りて読むこともあまりない。逆に、買ったらそれで満足してなかなか読み進められないことも多々あります。外で読むことが多いので単行本より文庫本が好きだけれど、写真集やイラスト入りのものは大型本として所有したい。一面本棚の部屋を持つのも夢のひとつです。
面白い本が読みたい、そして、素敵な本を持ちたい。本は買うものである僕にとって、古本屋は欠かすことのできない場所です。
閑話休題
高校生の頃、なにを思ったか市内の古本屋を自転車でまわり始めました。まだブックオフがそれほど店舗数を拡大していない頃です。椎名誠の既刊書籍のほとんどを100円の棚から集め終わった頃には、周辺視と瞬間視を駆使して目当ての本を棚から一瞬で探す力を身につけていました。
学生時代は、欲しい本を安価に手に入れる場所として古本屋を利用していました。一方、新古書店の台頭する最近、個人経営の古本屋には、やや古いとか、出版社がマイナーとかの理由で普段書店に並んでいない素晴らしい本を見つける場所としての価値が、僕の中で高まっていたようです。逆に、文庫本や雑誌、一部写真集などは新古書店を探すことが多くなって来ています。
リアル鬼ごっこ」を一度読んでみたいけれど100円しか出したくないのなら近所のブックオフに行けばいいし、金に糸目はつけないからどうしても「羅臼町史」が欲しいのなら釧路根室地方の古本屋をあたればいい。利用者・消費者としてはこういう使い分けをすればいいのでしょう。ごく当たり前です。
けれど、たとえ羅臼町史がブックオフで手に入る日が来るとしても、僕は小さな古本屋通いを止めないでしょう。僕は宝探しの心づもりで町の古本屋さんのドアを開くのです。誰かが読んでくれたおかげで、次はもしかしたら僕のところに来てくれる本があるかもしれない。僕の知らないスゴ本は、きっと埃をかぶった棚に並んでいる、はず。