紺色のひと

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アウトプットに関する日記

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いい加減、自分のことを「移住者」というくくりで見るのは止めたいと思っているのだけれど、暮らしの中でこの町の生まれでないことを強く意識することが多い分、まあ仕方ないかと半ばあきらめている。別にそれは悪い感覚ではなくて、この土地の方言を飲み会のたびにメモする行為が面白がられたり、僕自身も面白がって余所生まれを前面に押し出したりもしている。それはそうと、どうしても生活の大きな転換点であった移住前後でなにかを考えてしまうことがあって、例えばブログなんかでの文章のアウトプットの頻度が明らかに減っているのは生活に精神的な余裕がなくなった移住以降の減少とみていいのだろうけれど、それを言い訳のように理由にしたくない気持ちも確かにある。とはいえこういうのは波なので、無理に言葉をひねり出すこともせず、追われながら毎日を過ごしている。そのうち書きたくなれば書くのだろう。

アウトプットといえば、学生の頃に結成していたユニットのようなものを再結成した。音楽やろうぜ! バンドやろうぜ! という熱意は既に僕にも相方(連れだのなんだのという言い方もあるが、便宜的にこう表現する)にもなく、ある種の必然として練習したり、歌ったり、楽器を弾いたりしている。妻があいほんで撮ってくれた動画を見ると、気持ちよく弾いていたつもりがひどい音になっていて、二度と人前で弾くものかと思ったりもするのだけれど、それでも楽しいことは楽しいこととして続けていきたい。

大変なことも多いけれど、大きな楽しみをいくつも抱えながら暮らしてゆけているように思う。その楽しみ方が、妻や家族の幸せな生活とイコールであって欲しいと思うのだけれど、そのあたりは微調整を怠らないようにしたい。

忘却と回顧の夜

残業が続いて遅くなった夜。職場を出て、空気を大きく吸い込んだ。
車のエンジンをかけると、往路で聞いていたスピッツが流れ始めた。「ウサギのバイク」だ。乗り込み、窓を開けて走り出すと、初夏の冷たく、どこか花粉くさいような風が車内に吹き込んできた。
唐突に、今がいつなのかわからなくなった。学生の頃、まったく同じ瞬間があったような――あの時は自転車にヘッドホンで聞いていたのだったか、それとも友人から譲り受けた古い車で聞いていたのだったか――、有り体に言えば、あの頃に戻ったような心持ちになって、ひどく動揺した。
いろいろな決断を経て、僕は今、学生時代を過ごした町で再び暮らしている。家族構成や自分の立場、変わったものはとても多くて、今こそが自分の生きている場なのだと思う。それでも、同じ町の同じような夜に生きていることを、時間を超えて認識したということを、ふいに実感したのだ。10年以上前の僕も、「ウサギのバイク」だの「魔女旅に出る」だのを口ずさみながら自転車をこぎ、涙ぐんでいたのだ。

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音楽で時間を超える、同じような経験をしたことは何度もあった。一番強い記憶は、夏の夕方、西日が強く差し込む六畳間で、部屋の片づけをしていた僕の姿。あのときのBGMはサニーデイ・サービスの「青春狂走曲」と「若者たち」だった。慣れないカルアミルクをすすりながら顔を赤くしていた自分を、どこか俯瞰するような視点で思い出すことができる。

この先もこの町で暮らしてゆくと、あんなふうに過ごしていた自分と向き合うタイミングが、これからもきっと来るのだと思う。プールサイドのような重い大気や、青い空を映した町中の水路や、広がる夜の田んぼに響くアマガエルなんかをきっかけにして、僕は情けない顔をしていたあのときの僕と向き合う。何度でもだ。我に返って手を頬に当てると、吹き込む夜風ですっかり冷たくなっていた。


【LIVE】スピッツ - ウサギのバイク


(PV)サニーデイ・サービス - 青春狂走曲