紺色のひと

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旅の支度をしよう。

そもそも、最初にこのことについて考え出したのはいつだったのか、僕は思い出すことができない。内包しているいくつかのことや派生する思考、さらにいくつかの側面から推測するに、僕は自身の成長のかなり早い段階でこのことについて考え始め、ある指向性を持って選び続けてきたはずなのだった。それでも明確にいつから、と思い出すことができないのは、この件について考えることそのものが生活に対する僕の思考であると言い換えても構わないからで、その変遷を辿れば、僕は自分がどんな好みをもっていて、どんなふうに世界の中で生きてゆこうと考えてきたかが、手に取るように理解できると確信している。


それは、なにを着るか、ということ。
「旅に出るとしたら、なにを着てゆくか?」
僕はそのことをずっと考えてきた。旅と言っても、どこへ行くのか、スタイルはどうなのか、誰と行くのか、期間はどのくらいなのか、考えるにあたって考慮しなければならない条件はたくさんある。だから僕はもう少し範囲を限定して、これを思考の中心に据えた。
「出かけた先でなにがあってもいいように服を選ぶとしたら?」
そのまま足を伸ばして一泊してみるでも、ちょっと山の中に分け入るでも、喧嘩に巻き込まれるでも、逃亡生活に入るでも、とりあえずなんとかなりそうな格好をしたいとすると、なにを着ればよいのだろう?


ひとつひとつ、リストを挙げることはしない。それでも、僕の頭の中には連綿と重ねられてきた旅支度についての思考が既に積もっている。それらの中からひとつまみ、僕は着て、今日から旅に出る。


旅とはなにか。彼はこう書いた。

旅は意識的・目的的になされる x-y-z 軸上の移動である。けれども、旅に出ようが出まいが、意識しようがしまいが、常に僕たちは t 軸に沿っても移動している。旅とは「ここではないどこか」のものであると同時に「いまではないいつか」のものでもある。であるならば、時間の移ろい、掠れゆく記憶、を同時に表現した旅の写真があってもよいはずだ。
人は、つい、旅とは何かを掴みにゆくものだと思い込み、何かを持ち帰ろうと必死になってしまう。けれども、そのような義務・焦燥というのは、結局、毎日の生活の中で担わされているものの延長に過ぎない。もし旅が非日常的なものであるとするならば、それは、何も獲得する必要がなく、忘れていくことが許されている時間、としてあるのではないだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/shokou5/20081104/1225804900


旅とはなにか。旅がt軸上を常に移動してゆくものそれ自体であるとすれば、僕が捉えてきた旅支度とは、当たり前のように暮らしてきた日常そのものであってもいいはずだ。ならば、旅に着てゆく服というのは、どういった性質を持つものか。
僕は普段着でゆく。常に最強装備の普段着に、少しだけ大きな鞄を持ってゆく。彼との最初の接点であった、大切なこの本と、いつもの緑色の野帖を放り込んで。

人間の土地 (新潮文庫)

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無事に帰って来たら、写真を見せるよ。