紺色のひと

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寮私小説『モーニングスター』5.山霧が、晴れました

寮についての最初の記憶はなんだっただろうか。さして深く潜ることもなく、僕は思い出すことができた。


初めて僕が寮を訪れたのは、そこに住むことになる半年ほど前、二〇〇二年の九月のことだった。見慣れない土地の寂れた道を歩き、辺りを見回しながらなんとか寮にたどり着くと、僕を待っていたのはガラス張りの平屋、そしてそれに連なるように建つクリーム色の二階建ての建物だった。ガラスの向こうには白い長テーブルと丸椅子がいくつも見えたから、ここが食堂なのだと分かった。
玄関の前には錆びてひどい色になったトタン屋根の小屋が三棟あり、そのどれもに自転車やバイクが置いてあった。チェーンが外れているものやナンバーが外れているものがほとんどだったけれど、いくつかは使用感に溢れていて、たしかにここにひとが住んでいるということを主張しているように見えた。
僕は、なぜ自分が自転車にそんなことを見出したのか不思議に思ったけれど、開け放たれた玄関に目をやってすぐにそれを理解した。外見はひどく寂れていたけれど、扉からは確かに生活が溢れてきていたのだ。目に見えるなにかではない、若者が暮らしているということを伝えるなにかが、僕まで届いたのを感じた。それは玄関のタイヤや赤いポストから、カギの壊れた開き戸から、周りに雑草の伸びた蛇口から、そしてしっかりとスタンドで立つ自転車から、たしかに沸きあがっていた。
建物がかもし出している雰囲気は「廃墟」と呼ぶのにふさわしかった。でも、僕はそのとき、ここで暮らしてゆこうと、いや、それよりももっと強く、ここで生き延びてゆこうと心に決めたのだった。




寮を出て三度目の夏が来ていた。それはこの仕事を始めて三度目の夏が来ていることと同じで、去年よりも少し、一昨年よりももう少し仕事の進め方に余裕が出来つつあることを自覚しながらも、慢心しないように慎重に進めようと僕は今日も会社に通っていた。とかく僕は調子に乗りがちなのだ。


社会に出た僕が考えるようになったのは、仕事における技術的なこと、そしてそれを自分が納得するように説明づけることだった。
僕にとって、息をすることに始まる生活の全ては、生き延びることに繋がっていた。
学生生活を送った山形県は札幌よりもずっと田舎で、車を十五分も走らせれば海にも川にも山にも行くことができた。専攻柄、野外でのフィールドワークが多かったから、例えば川の中を滑らずに歩くやり方、重心移動のコツ、投網の振り方からロープワークまで、すべてが自分の生き延びるための技術を磨くことに直結していた。部活としてやっていた武道は、身体づくりと対人の攻防の技術を磨くのに役に立った。三食自炊こそしなかったけれど、少ない金額で毎月をやり過ごす感覚、アルバイト先の寿司屋での立ち回り、社会勉強と言うには軽いことばかりだけれど、生活のひとつひとつをそのまま、生を繋ぐ技術へと応用できる気がしていた。


札幌に戻り社会人として仕事を始めると、死なずにいることが当たり前すぎて、積極的に生きている感覚を忘れるようになってしまっていた。自律神経とは便利なもので、脳が生きろと命令を下さなくても呼吸を続けるし、心臓は鼓動する。毎朝地下鉄に乗って会社の机に座りパソコンの電源を付けて作業をし、たまに会社の外に出て、またパソコンの前に座る。毎日の中で生きることを実感するには、もっと社会的な、例えば先輩の機嫌を上手く取るにはどうしたらいいかとか、上司の話の途中でいかに自分の意見を挟むかとか、頭の固い客先にいかにわかりやすくプレゼンをするかとか、「人間社会において」生き延びることに意識をシフトしなければいけなかった。
そういう意味では、周囲の面子に恵まれていた寮での生活というのは、ひどく温いものであったように今は感じられる。いや、社会的な研鑚を積む、という意味では、今のサラリーマン生活に比べるべくもないけれど、それでもこうして僕をノートに向かわせるのは、寮生活がただ温く楽しいだけのものだったのではなく、あの頃確かに感じたエネルギーのようなものが、未だ僕の中に残っていると信じさせるのに充分なのだった。
夢に見ることは少なくなったけれど、日々の生活の折に触れ思い出せているのは、僕の歴史の中に確かに刻まれた、故郷としての重みなのだと思っている。




6.別れの歌がうたえない



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寮私小説『モーニングスター』6.別れの歌がうたえない

ああ、きっと、目まぐるしく続くこの生活は、何かに気付いたときにはもう終わりを迎えているのだろうな。



映像を伴った強烈な記憶がある。卒業を前にした、十一月頃のことだったと思う。
僕たちは、近所のスーパーに買い物に出かけたのだ。四人揃って、自転車を押して。



僕は江国に声をかけ、ウィンドブレーカーを羽織った。物音を聞きつけてか藤沢も小花も合流し、結局買い物には四人揃って出ることになった。
外はまだ明るくて、今が十一月だということを忘れてしまいそうなくらいの光に満ちていた。クランクを抜けて旧国道まで出ると、夕方の西日が一層強く僕たちの背中を照らした。そのとき、僕は三人の写真を撮ったのだ。そうするのが当たり前だとそのときに思った――のかは覚えていないけれど、休日の夕方の、あまりに日常然としていたその一瞬がなんだか哀しく思えて、自転車を押す江国、ふざける小花、笑う藤沢を画角に収めた。


卒業論文の提出に向けて慌しくなり、以前のように四人で寮食を食べることは少なくなっていた。それぞれの進路もほぼ決まり、この町で過ごす同じ季節は二度と来ないという実感だけが僕を毎夜襲っていた。
いい加減に終わりを意識しないわけにはいかなかった。だからと言って今日一日を大切に生きよう、なんて白々しいことを考えたりはしていなかったけれど、ふいに今が取り戻せないことを悔やむくらい満ち足りていることを自覚する瞬間が増えていた。
この土地では、雨が雪に変わるのが冬の始まる合図だった。たかだか三年しか住んでいないのに、窓越しに伝わる冷たい空気はいつも、秋の終わりと冬の始まりを僕に教えてくれた。



「さよなら!」
僕は誰にも聞こえないように、そっと口にした。そんな言葉をこれから何度使えばいいんだろうと思った。
小花の押す自転車のブレーキが軋む音がした。買い物かごに入ったビニールが揺れてがさがさと音がした。振り返ると、眩しい光の中で三人が逆光に顔をしかめていて、それで僕は自分が夕日を背負っていることに気づいた。僕は立ち止まり、三人が僕に追い付き、そして追い越すのを待って、少しだけ距離を空けて歩き始めた。
僕たちは旧国道から一本脇に入り、左手の小さな社にちらりと目をやり、クランクを曲がった。クランクを抜けて畳屋のおじいさんに頭を下げ、顔を上げるとそこにはいつものように寮はあった。さっきまでその中にいたはずなのに、まさにいつものように寮はあったのだ。
「今このときをいつか思い出すとしたら、そのときおれはどこでどんな暮らしをしているのだろう」と僕は考え、彼らに続いて玄関へと向かった。






読了多謝!


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