紺色のひと

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逃亡前夜

好きな漫画に、大学を卒業した主人公が定職に就かず、バックパッカーとしてその日暮らしを送る場面がある。田舎で退屈な高校生活を送る主人公は、都会から越してきた女の子と出会い、自分の暮らす土地の魅力に気づき、それでも外に出る決意を固める。彼が高校を卒業し、進学先の都会の雑踏に足を踏み入れていく後ろ姿で本編は終わる。その後日談として語られるのが、先の放浪生活なのだった。
僕はとうにその年齢を過ぎ、彼よりずっと身の回りも固まっている。一世一代の決心とも言える移住から、なんだかんだで仕事も見つかり、もうすぐ新築の家も完成する。はっきり言えば、逃げ場はもうない。何かの拍子に、しばらくふらりとひとりで旅行に行くことは、まあ今の自分の生活を考えればとても難しいだろう。そういう憧れを抱きつつも、大切な妻との暮らしとか、子供たちのこととか、みずからの生活を構築することを選んだ経緯が現時点であるわけで、そこに不満はない。主に妻のおかげで、とてもうまく行っているとさえ思う。
それでも思考の逃げ場というか、常に頭の中には「このままどこかに行ってしまえるように」という意識がある。もうどうしようもなくなったら逃げてしまえばいいんだ、と意図的に思うようにしている……とも言い換えることができるかもしれない。自分を追い込みすぎないためのセーフティなのだろう。それでも、歳を重ねるごとに、その想像はどんどんと具体化する。ここにひとつひとつ挙げはしないけれど、着ていくシャツだとか、持っていく小道具だとか、季節や土地ごとの条件だとか、頭の中の僕の姿は確かな姿をとりつつあるのだ。何度も繰り返しているのだから当然だろう。

できるはずのないことを想像するのは楽しい。いざとなればおれも、と思うことは、僕の日常に確かな足場を与えてくれる。帰る場所があるからこその想像なのだとわかっているし、たとえ旅に出ることがあっても、それが想像の代替でしかないことをわかっている。
ずっと前に遊んだPCゲームで、放浪の旅を続ける男が黒い長袖のVネックを着ていたのをなぜか思い出す。おれはああはなるまい、好きな服で、たしかな足取りで、かえってゆく場所への寄り道のために逃げるのだと、今日も逃亡前夜の夢想にふけるのだ。

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2018年、星巡のソフトパレード

歳を重ねるごとに体感する一年間が短くなってゆくとか、時間があっという間に過ぎるとか言うけれど、今年は特にそういう実感もなく、一日一日がじっくり過ぎて行った印象がある。秋に大きな仕事の節目があり、そこでようやく「ああ、やっと春から半年か」と思えたようだ。
移住後繰り返し書いていることだが、この数年ブログを含めた思考・表現のアウトプット欲ががっつりと低下していて、自分の中の言語化しがたい部分がどんどんと薄れていくようで怖かった。いや、現在進行で恐れている。twitterなんかで日常的に発生している諍いや、所謂エモい出来事に無理やり目を通しつつ、マイナスとプラスの振れ幅を保とうと感情的になることにしがみついているようだ。

年末、カメラを買った。前から欲しかったものだけれど、お仕事頑張ったよねというのと、今回も妻に「あなたはもっと写真を撮って」と背中を押してもらって、そのおかげで躊躇っていた注文確定ボタンを押せたのだ。
届いて早々、家の中で妻や子供たちにカメラを向けてみる。本にかじりついている長女、三語文を操り始めた長男、きかない彼らを、時に声を荒げつつ僕にはできない語り口でなだめる妻。楽しい。撮るのがすごく楽しい。

来年に向けて今年を振り返るというより、こういう気持ちで毎日暮らしてゆきたい。

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