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紺色のひと

思考整理とか表現とか環境について、自分のために考える。サイドバー「このブログについて」をご参照ください

あっちぇえランド

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県民河川愛護デーには、家の近所や河川敷、海岸の清掃をするのがこのまちの定例行事だ。大家さんから貸し与えられた刈り払い機の試動を済ませ、集合時間の6時少し前にゴミステーションに向かった。二軒隣に住んでいるおじさんがちょうど出てきたところだったので、合流した。

「朝からあっちぇえの」
「ほんとですね、風もねっしや」

通りすがりに、3枚貼られた選挙ポスターをちらりと眺めた。妻が「しげるくんが寝入ろうとするときに選挙カーが通って起きちゃうんだよね」と言っていたのはどの候補だったか。

僕は山際のあぜ道沿い、やや草丈の高い部分を任された。刈り払い機は何度か使ったことがある程度で、まだ手に馴染むようには扱えない。学生の頃、北海道で仕事をしていた頃、どちらともちょっとタイプの違う新しいものだ。ベルトの長さをもう一度調整し、腰を曲げなくても刃先が地表すれすれに届くことを確認してから、強くひもを引いた。試動のおかげか、2回目でスタート。眼前のイタドリに取り掛かることにした。
僕は野外での単純作業が結構好きだ。思考リソースを大きく二つに分けて、半分は作業の効率化に充て、もう半分であれこれと思いを巡らせながら、とりとめも無いことを考えるのがいい。ひとつのことに思考を絞り込まずに、なるべく散逸させながら進めるのだ。
(オオイタドリより背が低いわりに茎が固いのは気温のせいか、水分条件なのか)((まだ集落のひとの名前覚えきれてないけど、次の夏祭りでもうちょっとわかるかな))(クズの蔓、本当に邪魔だ)((朝イチで選挙行っちゃいたいけど、混みそうだな))(石跳ね防止カバー、こういう環境だとかえって引っかかって危ない)((……))(……)


風が吹かず、草むらで停滞した空気を刈り払い機でかき混ぜながら進んでいるようだった。雨が降りそうだからとTシャツの上に薄手の作業用パーカを羽織ってきたはいいが、上半身全体が蒸し上げられてゆくようでとても不快だった。思考が攻撃的になってゆくのが自覚できた。半分のリソースはなるべく冷やしたまま、効率化のことだけを考えるようにした。右手をやや強く握り込んで刃の回転数を上げ、軽く振りぬくように桑の幼木の根元を撫でた。


((参院選と都知事選が近づくにつれ、いつも眺めているディスプレイの向こう側での空気の変化が強く伝わってくるようになった。twitterは元より、Facebookにそれが顕著だった。顔見知りの、あるいは親しい友人たちの、これまで語ることのなかった政治的な思想が強く表出してくる。僕にはそれが、ひどくグロテスクなものに感じられた。))
((僕は自分の政治信条を他者に向けて語ることを好まず、webではもちろん、友人たちともそういった話題を取り上げることを避けてきた。そういったひと付き合いをうわべだけのものだと呼ぶひとがいるのは知っていたが、僕は気の合う友人たちだからこそすべての分野について言葉を尽くさなくてもいいと思っているし、たとえ政治的な考え方が異なったとしても、それを殊更に取り上げて溝を深める必要はないと考えているからだ。))
((それでも、実際に「彼/彼女がこう考えていたんだ」と可視化されてしまうと、意識せざるを得なくなる。知らなければ気にしなくてよかったものを、知る必要がないと思っていたはずのものを、自分と考えが異なるという理由で「がっかりした」と思ってしまう。それはすなわち僕が、政治的な意見を他者の評価基準のひとつに据えているということで、『たとえ政治的な考え方が異なったとしても、それを殊更に取り上げて溝を深める必要はない』という自分の考えと矛盾していることに気づいてしまうのだ。))


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((ふと、今年の連休に、大学寮にいた頃の友人たちと集まったことを思い出した。上野で集合し、国立博物館で「黄金のアフガニスタン」展を見た後、上野公園の端にシートを敷き、真昼間から酒を飲んだのだ。それぞれの仕事の話を少しずつし、今の生活の話を少しずつした。重苦しい話はなにひとつなかった。久しぶりの再会、だらだらと続く時間、少しずつ冷えてゆく空気、すばらしい時間だった。))
((友人のひとりと後日やり取りしたとき、彼がメッセージにこう書いてきた。「SNSだと過激というか極端になりがちだし、文字だとうまく伝わらないことも多い」「酒飲みながら公園でおしゃべりくらいで」「逃げ道あるといいよね」。たくさん気が合う部分があっても、ひとつの合わない部分が決定的になり得るなら、それを表出させないことこそが解決策のひとつのはずだ。))

((僕は誰かが「いいね!」してフィードに表示された情報を、何かそのひとの重大な意思表明だと思ってはいなかっただろうか。僕が『表出した』と感じていたことは、僕が勝手に想像した藁人形ではなかっただろうか。他人の「いいね!」ひとつの重みや意味を僕が決めることこそが、僕が嫌う他者の代弁行為そのものではないだろうか。))


ヴィン! 既に誰かによって伐られていたヤナギの低木に刃がかすり、高い音を立てた。僕は両手に力を入れて体勢を立て直し、同時に思考の配分がうまくいっていなかったことに気づく。
慣れない機械を扱うときは、それ相応の思考配分をしなければいけない。当たり前のことだ。道具に使われてどうする。思考を御し、それを使う体を御して、自分の思うことを実行するのだ。表現だって、言葉だって、多分似たようなもののはずだ。誰かのエンジン音に心をざわつかせてはいけない。少しずつ右手を握り込んで、だんだんと早くなる刃の回転を操るのだ。


「おーいしげおくん、そろそろ時間だっし、あがろうやあ」
「はーい!」
「しっかしあっちぇえの、結局降らなかったしや」
「んだですの」