紺色のひと

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酒と嫌悪と男と女

高校の友人と飲んだ。最後の十数分、僕はテーブルに突っ伏して眠ってしまった。頭痛が眠気に対してまったく抵抗とならない。これはひどいと思って久しぶりに会った友人たちに別れを告げ、北大の構内をアパートに向けて歩き出した。喉が渇いていた。ビールとサワーを一杯ずつ、それだけで頭痛がするというのは自分の酒の弱さを勘案しても余程のことだった。週末は恋人と楽しくあちこちと歩き回ったから、なんだかんだで疲れていたのだろう。
アパートで月曜の仕事の準備をして、恋人の部屋へ向かった。冷たいお茶を飲んだりアイスを食べながら、オリンピックの女子障害を見たり、インターネットをしたりしていた。ふざけて頭を振ると、やっぱり痛かった。
何気ない話だったと思う。僕がある言葉を検索して、そこから辿ったページを笑いながら、さらに言えば失笑しながら見ていた。グロテスクな写真も載っていた。後ろからそれを覗き込んだ恋人は、「え、なんでそれ見て笑うの?」と僕に聞いたのだ。そのときになって初めて、僕は酔っ払っている自分が危険だということに気づいた。
詳しく書くことは伏せるけれど、僕には嫌いなものや許せないものがたくさんある。ただ、日常生活で誰かと話すときやこうしてweb上に書くとき、そういうものをなるたけ顕わにしないように気をつけているつもりだ。「不快感を表現したところでなにも解決しない」ことが多いと思っているからで、これは直情径行がモットーだった頃の若い自分が得た、それなりに苦い経験から学んだことのひとつだった。ともかく、恋人の言葉にうっと来てしまった僕は、口調が乱暴にならないように気を付けながら、自分には他人の思考のやり方や生き方で許せないものが多くあること、なるべく表に出さないようにしていること、今の自分の言で気を悪くしたなら謝る、というような内容のことを彼女に伝えた。
幸いというか彼女は、言葉は違えどあなたの考えには概ね同意で、わたしも好きじゃない、と言ってくれたので救われたようにも感じたけれど、同時に酒で噴出したりたがが外れ易くなったりすることはごく当たり前にあることを思い知った。
昔嫌いだったものを懐かしくいとおしく感じたり、許せなかったものへの憤りが和らいで理解に変化する、そういう感情にごく日常的に気づくようになっている。今嫌いだ、憎い、許せない、と感じているいくらかの事象に対して、今後の僕がどういう対応をしてゆくのかが気になっている。区切りをつけるのか、無関心になるのか、積極的な負の感情を押し出すのか、いろいろと路はあるだろう。好きで誰かと繋がることがあるように、嫌いで誰かと繋がることもあるのだから、今後不快と感じたものを顕わにする未来だってあるはずなのだ。ただ、それをやるには、僕の言葉はあまりにたどたどしい。