紺色のひと

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いまさら『氷菓』の話をしよう

米澤穂信の青春ミステリ小説「古典部シリーズ」を京都アニメーションがアニメ化した「氷菓」。原作を何度も読んでいたこともあり、アニメが始まるのを大変楽しみにしていたのだが、放映時にはほとんど見ることができなくて、この度ようやく全話を通して見終えた。

氷菓<「古典部」シリーズ> (角川文庫)

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「氷菓」BD-BOX [Blu-ray]

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以下は、感想もそこそこに、自分の中高生の頃のことを思い出して、とりとめもなくキーボードに叩きつけるだけの文章になる。



関連記事として、以前twitterで@tricken氏、@chronekotei氏とそれぞれお話しした記録がまとめてあるので、ここにリンクしておく。
縦に延伸される青春の語り - Togetterまとめ
アニメ「氷菓」での登場人物考、特に里志について - Togetterまとめ

里志のこと

鑑賞中、何度か悲鳴を上げた。
アニメは原作小説と比べ、対人関係の描写がやや演出過剰ではあったけれど、そう不快になることもなかった。また彼らが抱えている葛藤をわかりやすく浮かび上がらせていたと思う。そういう演出に対して、やめてくれ、とこぼしてしまうのだ。

僕は作中人物の福部里志に多大なるシンパシーを抱いている。似非粋人と称され、データベースは結論を出せないとのたまいながら、何らかの才能を見せる友人に対し思いの丈をこぼしてみたり、あるいは小器用に趣味を広げはしてみても何かを突き詰めることができない自分に対して自虐的になってみたり――そういうところを自分と重ねてしまったり、あるいは"里志になっていたかもしれない自分"がリアルに想像できてしまったりするからだ。
僕が特に好きなのはシリーズ3冊目の「クドリャフカの順番」だが、それもお祭り男である里志と、あちらこちらに顔を出しつつ自己主張と自分の能力のギャップに悩む里志が多く描写されているからだ。
幸い、当時好きだった女の子は摩耶花っぽくはなかったのだけれど、出入りしていたあちらこちらの部室や溜まり場になっていた教室には、今思えば摩耶花に似ていた、彼女をどこか思い起こさせるような女の子たちが確かに存在していた。そう言う意味でも、摩耶花は視聴者の地雷になり得る造形だと思っている。
つらい。

クドリャフカの順番<「古典部」シリーズ> (角川文庫)

クドリャフカの順番<「古典部」シリーズ> (角川文庫)


失われた過去に手を伸ばすこと

以前、友人と酒を飲みながら、こういう話をしたことがある。

もし同じ高校にSOS団があっても、遠巻きに眺めるだけで中に入ろうとしなかった自分が想像できて、それでも「ああいう生活」を求めてしまう自分がいるんだ


僕にとっても古典部は似たような環境だが、SOS団と比べて大きく違うのは、僕の高校時代が古典部を取り巻く環境と共通点が多かったからだ。地方都市の進学校。部活動が盛んで、スポーツ系だけでなく文科系部にも勢いがある。僕はその中で、校舎の隅のほうにある地学教室で、あまり多くない仲間と、文科系の部活動に勤しんでいた。
つらい。
好きな小説がアニメになって、その登場人物がわかりやすく視覚的に描写されて、そこに自分と共通点を多く見出してしまうのに、それが自分にとって現実感のあるものでないことがつらい。なし得なかったifの世界を突きつけられているようでつらい。
僕はないものねだりなのだ。


閑話休題。

子供っぽい子供だった自分のこと

創作の中の登場人物が、実年齢よりも大人びて見えることが多い。僕は僕で子供っぽい子供だったが、それでも中高生の時に数多の創作の中の彼らと同じような思考ができていたとは到底思えない。
その原因を考えてみたら、ある程度自分なりに納得のいく結論が導き出せた。


僕は小中学生の頃にどんなことを考えていたのか、あまり覚えていない。エピソードの類――毒チョコを作ってバレンタインにクラスメイトに贈ったとか、好きだった女の子と理科室の黒い机で筆談したとか、そういうのでは辛うじて覚えているけれど、日常的に何を考えていたのか――どういうことに怒り、何らかのテーマに対してどういう思考をしてどんな答えを出したのか、そういうのはまるで思い出せない。
思い出せるようになっていくのは、何らかの文章を書くようになった高校生以降のことだ。あるときから手持ちの小さなノートに何かを書き付けるようになっていて、そこから詩やエッセイめいたもの、私小説の類に変化していった。
僕は影響されやすい性質で、私小説を書くようになったのも椎名誠御大の影響が非常に強い。今は少しこなれてきたようにも思うけれど、その文体も御大と宮沢賢治、そして保坂和志をごっちゃにしたような感じだった。そのとき読んでいるものや好きだったものに憧れ、それを小説のような形で書いて、主人公格たる自分がそれに近づくような、そういう変化を少しずつ繰り返して僕は大人になってきた。
中学生の頃の僕は創作作品をあまり好んで読むほうではなく、小学生の頃から好きだった海外の児童文学と絵本、宮沢賢治の童話なんかばかりを開いていた。テスト前で夜更かしすると、必ず「はてしない物語」を通読していたことを思い出す。恋愛小説やミステリも読まなかったし(ひとが死ぬ話が嫌いだったのだ)、かといって実用書の類もまるっきりだ。つまりは、憧れたり目指したりする類のものを、読書の中から得ることをしなかったのだ、中学生の頃の僕は。
高校に入って、いくつかのきっかけから漫画や他の小説を読むようになって、それらの中から少しずつ「こうなりたい自分」を見つけ出していったように思う。それを文章にし、主人公である自分をちょっと格好良く描写していると、いつかその一部が身になっていたのだ。そういう変化は二十歳を過ぎる頃まで続いた。

OP曲のこと

氷菓OP「優しさの理由」を繰り返し聞いてみたけれど、歌詞のフレーズがかなり意識的に高校生の琴線に触れるように選ばれているようで、なかなかつらい。

【字幕歌詞入り】「氷菓」OP優しさの理由


光も影もまだ遠くて
それでも僕らは/優しさの理由が知りたい
今は誰の名前でもない
輝きの彼方へ
全部過去になる前に/見つけに行こう


このあたり、アドレッセンス中葉の彼らを意識してる感がビリビリ伝わってきて大変よい。つらい。
全てが過去になってしまった今、不思議な疎外感を覚えながらこの曲を聴いている。


高校で読んでなくてよかった! 命拾いしたぜ!

断言できる。僕が中高生の頃に小説「氷菓」やアニメに出会っていたら、間違いなく里志に憧れて巾着袋を振り回していただろう。出会っていなくても彼の奇行の一部にはわが身に覚えがあるわけで、また別に面倒なことなのだけれど、大人になってから出会えたのはそういう意味で幸運だったのかもしれない。実際、シリーズ一作目は僕が高校2年生、もっとも自我の強い頃だった2001年に出版されていたのだから。それはそれで、十分にあり得る未来だったのだ。


この「なし得なかった過去」「あり得るかもしれなかった未来」みたいなキーワードとは、しばらく付き合っていかなければならないような気がする。あの頃から10年以上経った今も、何者かになれたのか、まるで答えられないのだ僕は。


ところで

米澤穂信作品で、高校生を舞台にしたものといえば、もうひとつ「小市民」シリーズがある。

春期限定いちごタルト事件 小市民シリーズ (創元推理文庫)

春期限定いちごタルト事件 小市民シリーズ (創元推理文庫)

こちらも作品として好きなのだけれど、古典部シリーズのようにわが身に照らしてダメージを食らうようなことはなかった。でも小佐内さんかわいい。

そういえば

ヒロイン、千反田えるの名前、「える」って変な名前だよねという話。由来や漢字表記についてはtwitterでも考察しているひとを見かけたりした。
アニメ『氷菓』の千反田さんはなんで「える」って名前なの? - Togetterまとめ
これは既に答えが出ているようなもので、同じトリックを使った話が穂信たんの作品「さよなら妖精」に登場する。これも大変好き。

さよなら妖精 (創元推理文庫)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

ネタバレにならない程度に書いてしまえば、「える」は漢字表記で、「さよなら妖精」内で出されたヒントを参照すれば、容易にえるたその名前にもたどり着くことができる。ここでは書かない。読めばよろしいが、どうしても気になる方のために考察ページへのリンクは張っておく。
古典部他


古典部シリーズ…というより米澤穂信作品については、この方の感想などをよく読ませていただいているので、リンクしておく。
3つのキーワードで読み解く『氷菓』 - 一本足の蛸




以上、唐突に終わる。気づいたときに適宜追記する。


僕の高校生の頃の自意識に関する参考:あの日、夏の終わりに、10年後の8月また会えると信じた僕達などいない。 - 紺色のひと
僕の高校生の頃の書くことに関する考察:登場人物になりたかった - 紺色のひと