紺色のひと

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とどかない言葉をとどけたいから

本エントリでは、「米のとぎ汁乳酸菌」に関わるやり取りを題材に、根拠のない健康対策やニセ科学・トンデモと呼ばれる情報を信じる方に対して、どのように意見を発信したらよいのか、どうやって問いかけをしたら聞いてもらえるのか……について考えてみたいと思います。


最近、放射能対策として「米のとぎ汁乳酸菌」というやり方が紹介されているのをあちこちで見かけます。お米をといだ汁にあれこれ加えて常温で熟成させ、乳酸菌を育成したものを噴霧・飲用などすると微生物が放射能を除去してくれるらしい――というものです。
このやり方については、効果が疑問視されているだけでなく、「腐ったものを摂取/吸引する」という行為自体の危険性について指摘されています。特に子供のいる家庭などでは、何が育っているのかわからない溶液を子供に飲ませることによる食あたりが、直接点眼したり吸い込んだりすることによる結膜炎や肺炎など、健康への悪影響が懸念されています。
米のとぎ汁乳酸菌(?)なんてやめたほうがいいよ!−Togetterまとめ



さて。
この「米のとぎ汁乳酸菌」については、農業資材以外の用途が疑問視されているEM(有用微生物群)*1絡みであるということもあり、研究者等によっても危険性が指摘されています。

放射線対策に「米のとぎ汁乳酸菌」 専門家から効果に疑問の声−J-CASTニュース

「聞こえはいいけど、やってることは『腐った汁を子供に飲ませる』のと同じだよ?」と僕も思いました。
子供の健康のことを第一に心配するなら、「効果がある”かも”しれないから」とイチかバチかで怪しい健康対策に賭けるより、自分で調べて堅実なやり方を選択すればいい。「子供のため」という言葉を免罪符に、「なにかしたい自分」の欲求を優先させているだけではないのだろうか?――そんなことを考えました。


https://www.instagram.com/p/o6JNUYMoyc/



「米のとぎ汁乳酸菌」に関するとあるやり取り

さて、昨日。「あやしい放射能対策」という記事をSYNODOSに寄稿され、この件について積極的に発言されている片瀬久美子さんが、この「米のとぎ汁乳酸菌」に関連して、好意的に捉えておいでと思われる方とやり取りしておいででした。

「米のとぎ汁乳酸菌」信奉者を説得するのは糠に釘である。−Togetterまとめ

なお、前後の発言を含め、会話の流れはこちら とぎ汁>乳酸菌>悪態−Togetterまとめ のほうがより整理されています。


効果のほどを疑問視し、むしろ危険性について指摘する片瀬さんに対し、対話相手のyuunyannさんの返答はあまり噛みあわず、最後には「私から話しかけたわけでもないのにしつこく絡んでくる」「あなたが使わないのなら好きにすればいい」と、残念ながらあまり話を聞いてもらえない対話になってしまった、という印象を受けました。

まとめ後、yuunyannさんと別の方とのやり取りを読むと、まとめでのやり取りを振り返って「失礼な人達だった」「目に入れるとか肺に入れるとか、勝手に想像し決めつけて自分勝手にしゃべって勝手に怒っていた」「ナンカ勝手に勘違いした人ばっかからツイきて気持ち悪い」「単なる嫌がらせ」「関わらないほうがいい」などとの言葉が聞かれました。
米の米のとぎ汁乳酸菌で片瀬久美子さんとメンション飛ばした@ 4649nanoda さんのその後−Togetterまとめ


すれ違いの要因はどこだろう

片瀬さんの元には、上記SYNODOS記事の発表以来、リプライなどで「あやしい対策」に関わる発言が多く寄せられているとのことで、こうして個々人と直接やり取りされている片瀬さんの姿勢には本当に頭が下がりますし、個人的にとても参考にさせていただいています。
でも、今回はどうしてこんなふうなやり取りになってしまったのでしょう?
僭越ながら、僕が感じたことを挙げてみますと

批判・指摘をする側に、「米のとぎ汁乳酸菌に好意的なツイートをするひとは誰もが、それが放射能に効くと思っていて、子供より自分の意思が大事で、点眼・散布していて、腐ったものを子供に飲ませている」という前提による印象で話をしてはいないだろうか?

という点です。


例えば今回のやり取りにおいては、

  • yuunyannさんは「信奉者というレッテルを貼られた」「仕立て上げられた」と感じている
  • yuunyannさんは「米のとぎ汁乳酸菌」をあまりご存知ないようだ
  • 片瀬さんが「漬物を作ったことがある方なら(あまりに様式・形態の異なる)米のとぎ汁と同一視しないだろう」と意図して聞いたであろう「漬物つくったことあります?」という質問が、yuunyannさんに「上から目線の失礼な質問」と捉えられた
  • まとめを通じてyuunyannさんに投げられた意見の中に、心証を害するものがあったようだ

などの点に、うまくいかなかった要因がある気がします。


これは、片瀬さんの発言の不備というよりは、

  • togetterまとめ作成時のタイトル付けの言葉の選び方がちょっと強烈だった
  • 対話相手の思考がよくわからない状態で会話を始めなければならないtwitterという場の性質
  • 話題を整理しようと聞いた「漬物」に関する質問が、主婦であるyuunyannさんにとっては馬鹿にされているように感じた

などの要因によるものと考えられます。

例えば、片瀬さんは一度も「信奉者」「信者」「信仰」という言葉を使っていません。まとめタイトルに「信奉者」という言葉が出てくるのみです。しかし、その後のやり取りを読むと、ご本人は「そういうレッテルを貼られた」と感じているようですし、「サイテーだよねー」「関わらないほうがいいよね」と言い合っておいでです。

また、yuunyannさんは、腐ったものを子供に飲ませるとか点眼するなんてダメだ、という認識でいらっしゃるようなのですが*2、これはやり取りする前はわからない情報でした。
問題点を指摘する側は、米のとぎ汁乳酸菌の何が悪いか、どんな悪影響が考えられるか、という具体的事例・その弊害まで頭に入っていることが多い故に、対話相手を最悪のケースとして念頭に置かざるを得ないのですが、場合によってはそれが相手に「私はそんなこと信じていないのに失礼なレッテル貼りだ」と思われてしまう、という危険性も孕んでいます。
さらに、ニセ科学批判を通じて、「やり取りしている二者」以外から心無い言葉を投げつけられ、「ニセ科学批判をする層」ひいては対話相手を憎む、あるいは話を聞いてもらえなくなる――というのもよく見られる構図に思います。



https://www.instagram.com/p/mWmoAqMozT/


ニセ科学批判クラスタとの温度差

こういうやりとりを見てしまうと、短気な僕なんかは「本当に信じたいものしか信じないのだな」とか思ってしまうのです。子供の安全より、「安全だと思う自分の行為」のほうが大切で、ある種の自己実現のためにやってるようにさえ見える――効果の検証もしないでドングリを森にばらまくが如く、などと思ってしまうのです。
また、このまとめに限らず、あやしい放射能対策やニセ科学療法を信じる方には、「自分の意見に対して反論する層」を仮想敵にして、その印象を特定個人に与えたうえで会話をしているんだな、と思うことが多々あります。
しかし、しかしです。自戒を込めてあえて言葉にしますね、ニセ科学批判をする層――「ニセ科学批判クラスタ」なんて呼ばれたりもしますが――も、同様に「ニセ科学を信じているひとは誰もが、その信ずる対象における最大最悪なのめりこみかたをしている」と想定してはいないでしょうか。
先程も書いたように、twitter等における個人間のやりとりにおいては、対話相手の情報が少ない故に、最悪の状態を想定して望まなければならないことがあります。他方で、相手がそのニセ科学に対して、大した思いを抱いていないことも同様にあって、そこで批判・指摘側と温度差が生まれてしまった結果が今回のすれ違いだったのかな、と僕は感じました。



じゃあどうすればいいのよ、という話

このエントリをお読みになるような皆さんならきっとご存知のNATROM先生は、ニセ科学・トンデモとの対話のあり方として、「強く信じている方の説得*3は目的にせず、対話そのものを可視化することで第三者への判断材料として示す」という手法を用いておられます。これをfuka_fukaさんにあやかってNATROMメソッドと呼ぶと、本メソッドは「対話のあり方」としてひとつの有効な姿勢であると考えられます。

とはいえ、不特定多数に向けた関連発言をしていても、信じている方と直接やり取りする機会はやってきます。強く信じている方、なんとなくいいかなと感じている方、ひとから勧められたけどちょっと怪しいと思って調べている方…。その都度、どのような対応をすればいいのでしょうか? 果たして、僕の言葉を誰かに届けることはできるのでしょうか?

そんなことを考えていた際、let's skepticさんから「自分だったらどのような返信をおこなったか?」みたいなのを共有するのはどうか、というご意見を頂戴したので、「自分ならどうする」を考える前に、ニセ科学的な話題に対する際の自分の問いかけのスタンス・意識をちょっとまとめてみました。



https://www.instagram.com/p/H36TAUso4O/



アサイが「問いかけ・対話」の際に意識していること

僕が問いかけ、やり取りの際に意識していることは、「ライト層への情報として有用であるかどうか」という点です。
これは、昨秋に日本熊森協会のドングリ運びに関する批判を行っていた際に意識したことです。協会の会員さんやなんとなく参加した方の意見を読んでいるうち、僕自身も「webを通じての言葉による信者の説得は、あまりに困難だ」と実感するようになりました。でも、声高に叫ばれるそういう意見を放っておいたら、どうしてもそれを信じてしまうひとが出てきてしまいます。そこで、僕は「ひとから勧められたから」「なんとなくよさそうだから」と思っている方――上記の「ライト層」――を主たる対象とし、「それって本当にいいことでしょうか」「こういう考え方もありますよ」「立ち止まって考えてみよう」と言葉を問いかけるに留めることにしました。根拠なく「いいんじゃないか」と思っている方に、ご自分で考えて「やっぱりよくないかも」と思ってもらうことが、トンデモ情報のカウンターになり得るのではないか、と考えたからです。
相手の間違いを指摘するのではなく、正しいと思っていることが本当にそうなのか「考えてもらう」というスタンスを保つことを意識しました。さらっと読んでもらえるような言葉遣い(これは今もよくわかりませんが)や、根拠となるURLを貼る際は引用を併記するなど、細かい点は他にもありますが、記事にしろtwitterでの対話にしろ「正しいかどうかを考えてもらう」という目的を前提としたい、とは思っています。
野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ、そして「クマがかわいそうだから殺さないで」と感じる皆さんへはその前提で書かれたエントリですが、それでも書いていない悪意は読み取られてしまうし、意見に便乗して叩きめいた発言をする方はいるし、となかなかうまく行きません。


参考にさせていただいたエントリ

この話題について、参考にさせていただいたエントリを紹介します。
id:doramao さんは、ご自身の体験を振り返って、以前信じていた情報を批判する立場になった要因として、「自分にとって必要になったとき、必要な情報と出会えた」点があったと書いておられます。

当時を振り返って思うのは、もし誰かにお前の主張は間違っている、コレ読んで勉強しろみたいな事をいわれていたら果たして相手の主張を受け入れたでしょうか?感情的に反論し、反論を積み重ね認めるに認められない状況になってしまったかも知れません。
自分が受け入れる事のできる態勢が整った状態にある時偶然に、自分の意思で読み始めた本に丁寧な指摘が載っていたから・・・だからこそ出来たのだと思います。
とどかないことば−とらねこ日誌より引用

このエントリは、コメント欄を含め、ご自身の立場について述べておいでの方の意見が大変参考になるエントリです。「何かしないではいられない」という心理について述べた何も行動しないで見ている事はつらいこと−とらねこ日誌と併せ、広く読まれて欲しいと思います。


また、TAKESANさんは科学コミュニケーション――「態度」の問題−Interdisciplinaryにおいて、批判する側の立ち振る舞いについて書いておられます。

自分が好ましく思っていたり、信念や生活を支えるものを否定的に言われて、いい気分がするはずはありません。ものの言い方は重要です。要するに、「言っている内容が正しいだけでは駄目だ」という事です。
(中略)
自分自身が頑なで「物言い」に敏感だった頃、あるいは、身近の人の「話の聞かなさ」や「説得の難しさ」を思い出してみれば、いかにその部分が重要かは理解出来ます。

いわば、厳密に範囲を決められないがある程度社会的なコンセンサスを得られている「常識」があるであろう、という事です。
もちろん、だからといって、キツイ(と一般に看做されるであろう)言葉遣いなどが全然役に立たないとは言えません。対話の展開によっては、強い一言が大きな説得力を持つ場合もあるでしょう。それも文脈に依存しており、対話者の関係性が関わっています。
2引用は科学コミュニケーション――「態度」の問題−Interdisciplinaryより

どう書けばよいか、どのような態度をとるべきかについては非常に難しいとしながらも、「ある種『平均的』な好ましい態度」をとることが望ましいだろう、という意見について同意します。
一方で、場合によっては根拠と理論に基づいた厳しい言葉による意見が必要な場合(必要としているひと)も存在するわけで、優しい語りかけであればよい、というものでもないと考えます。僕はきついけれど正しい言葉による指摘・糾弾が苦手なのでこういう書き方をしているだけであって、その点は話者の得手不得手や文脈、また聞き手によって変わってくる部分だとも思います。




この「返信の仕方」について、正解はないと僕は考えています。話題によっても、話の流れによっても、対話する相手によっても大きく変化してしまうでしょう。別に、批判・指摘をする方が同一の目的を持って一枚岩で行っているわけではありませんし、意識するしないも話者に拠るのですが、もし、このエントリが、問いかける側としての意識が僕と近い方にとって参考になれば嬉しいです。
仮にtwitterだけに場を絞っても、対話する相手の層は様々ですし、問いかけのあり方も様々でしょう。正解はないとわかっているし、この「手法の共有」がむしろ議論の多様性にとって邪魔ではないかと危惧するところもあります。ただ、ニセ科学が蔓延する現状に対して「少しでも良くしたい」と思う気持ちについて、より良いあり方を探ることは無駄ではないはずだ、と信じたい気持ちが強く、まとまっていない中で本エントリを作成しました。色々と出すぎた記述もあると思いますが、ご指摘・ご意見等いただければ嬉しいです。




最後になりましたが、本エントリを作成するにあたって、下書きのチェックをしてくださり、さらに意見を聞かせてくださったむいみさんたかさん、webでのコミュニケーションについてのご意見を聞かせてくださった黒猫亭さん、そして本文中で引用させていただいた皆様、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。


■追記
8/5 6:15 本エントリを書くにあたって念頭にあった、TAKESANさんのエントリへのリンクを追加しました。また誤字の修正・記述を若干変更しました。
8/5 20:45 エントリを書くきっかけとなったTogetterまとめについて、会話の流れをより反映させたまとめが作成されましたので追加しました。

*1:参考:EM への疑問(3)〜EMは「ニセ科学」か?〜−杜の里から

*2:これは、ある意味救いといえば救いですが

*3:カルトに例えると「洗脳を解く」イメージ