野生のクマをなんとか助けたいと考える皆さんへ
全国各地でクマの出没が多発している、とのニュースが流れています。僕の住む北海道でも先日、道東斜里町の市街地に白昼ヒグマが3頭出現し、うち2頭が射殺されたとの報道がありました。本州四国に広く生息しているツキノワグマについても同様のニュースが聞かれます。
山林の奥に生息していたはずのクマが人里に現れ、住民被害を避けるためとは言え駆除される――毎年秋になると聞かれることですが、心が痛みます。特に今年はクマの餌となるドングリ類が凶作で、餌不足に悩まされたクマが人里に下りて来るのでは、と懸念されていることもあり、なんとかしてクマを救いたい、できるなら餌を届けてあげたいとお考えの方は多いと思います。
でも、ちょっと待ってください。飢えたクマに餌を届けることが、本当にクマのためになるのでしょうか?
本エントリでは、クマにドングリ等の餌を届ける活動と、人間と野生生物、ひいては人間と自然との関わり方について、改めて考えてみたいと思います。
さて、先日twitter上で、歌手の宇多田ヒカルさんがとある自然保護団体を紹介したことが話題に上りました。
宇多田ヒカル 12:42 PM Oct 19thのtweet
ここで紹介された「日本熊森協会」は、放棄された人工林の再生や、山林を買い取ることによりクマの生息域を保全するトラスト活動などを行っています。餌不足のクマのためにドングリを全国から集め、山林に撒く活動をご存知の方もいらっしゃるでしょう。
ところで、この日本熊森協会(以下「熊森」)の活動内容や自然保護観に対しては、専門家や自然好きの方から反論が挙がっています。かく言う僕も、熊森の活動の一部を素晴らしいと思う反面、どうしても賛同できないと感じる主張も多くありました。特に、代表的な活動である「ドングリを全国から集めてクマに食料を援助する」ことについては、活動の意義・目的よりも問題点が大きいのではないかと考えています。
以下、●ドングリ運びの問題点とは何か ●どのような観点から批判されているか ●熊森の「人間は自然に生かされている」という自然観について僕が思うこと について書きます。
【ドングリ運びの問題点について】
ドングリ運びの目的について、熊森では
豊かな森を再生させるまでの間、山の実りの凶作年に都会のどんぐりを拾い、山間地の地元の方々と協力して食糧が無くて人里に出てこざるをえないクマをはじめとする山の動物たちに届け、人間のところに出てこないようにすることです
日本熊森協会 知らせたい事 > どんぐり運びについて(同ウェブ魚拓)
としています。
これに対して僕が感じた疑問は、
クマに餌を与えたら、それで問題は解決するのか?
という一言に集約されます。
クマにドングリを運ぶ行為について、いくつか考えてみましょう。
- 野生動物は、厳しい自然の中で孤独に、しかし強く生きています。クマに餌を運んで“あげる”活動は、自立して生きている命を上から見下ろした、駆除や殺処分と同様の傲慢な行為だとは思いませんか?
- 飢えたクマに餌を与えることで、餌を食べたクマはその冬を生き延びるかもしれません。冬眠の季節を終え、春になるとメスのクマは子供を産み、個体数は増えることでしょう。では、その翌年はどうでしょうか? このやり方を続ける限り、個体数は増え続け、クマは人間の与える餌に依存していることになります。果たしてそれは、自然な状態と言えるでしょうか?
- 飢えたクマに餌を与えることで、クマは無事冬を越せるかもしれません。でも、お腹をすかせているのはきっとクマだけではないはずです。クマやドングリを餌とする動物だけに餌を与えて、森にすむ他の様々な動物たちを無視するのは、自然保護として不公平ではないでしょうか?
- 「(ドングリ運びがたとえ)焼け石に水でも、1日1頭のクマを救うために」活動を続けているそうですが、人間が餌をくれることを覚えたクマが「もっと餌をくれ!」と人里に下りてきてしまったら、活動は逆効果になる可能性はないでしょうか?
熊森は、この活動を「ドングリを『運ぶ』」「食料を『届ける』」「クマを『助ける』」という言葉で言い換えているものの、野生動物に対する『餌付け』に他なりません。
『自然とは人間が手をつけていないもの』『人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為』という考え方を持つ団体が、一方で自然に生きる動物たちに餌付けをしているのは明らかに矛盾で、ダブルスタンダードです。
日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(同ウェブ魚拓)
【その他の批判について】
その他、熊森の活動については、
本来そこに生息していなかったものを移動させることによって生じる遺伝子攪乱や外来種の問題や、
□保科英人(2004) 野生グマに対する餌付け行為としてのドングリ散布の是非について〜保全生物学的観点から〜(pdf)
人里近くにクマの食べ物を撒く行為そのものの問題や、
□楽山舎通信−熊に柿を与えるのは「まちがい」では
□楽山舎通信−クマ出没問題
考え方の根底や組織としての体制に関わる問題
□ならなしとり−これはおかしいよ熊森協会 まとめ
□ならなしとり−ここがおかしい熊森協会 暫定的まとめ
など、複数の観点から批判されています。これらはいわれのない非難や誹謗中傷ではなく、熊森の主張や行動に対し、科学的根拠やデータを問うものであると僕は感じます。
【「自然に生かされている」という自然保護観について】
熊森では、団体の基本的な考え方として、
《自然とは》
(前略)刻一刻と変遷し続けていくもの。それが自然です。自然とは人間が手をつけていないものです。この自然の大きな流れの中で、生かされているのが私たち人間なのです。《自然を守るとは》
(前略)人間による自然の利用を必要最低限にとどめ、それ以外の部分は手付かずで残す、それが私たちの祖先が実践してきた最良かつ唯一の方法です。一度バランスが崩れた自然を元に戻すには、自然の力に任せるしかありません。人間が自分の都合のいいように自然を保護したり管理したりしようとすることは、自然保護ではなく自然に敵対する行為です。
日本熊森協会 知らせたい事 > 熊森見解(同ウェブ魚拓)より引用
と掲げています。
ところで僕は、「自然保護や環境保全は『人間のため』である」と割り切って考えるようにしています。これは引用した熊森の考え方と大きく異なるものであり、そして非常に傲慢な考え方です。僕の考えを以下にまとめます。
「自然との共生」「地球との共存」などという言葉があちこちで聞かれるようになりました。僕は、共生や共存という言葉は、傲慢でおこがましいものであると強く感じています。クマが他の生物――ドングリや、ヒグマならサケなどを――食べて生きてゆかなければならないのと同様に、人間だって他の生物なしでは生きてゆけません。だからこそ、他の生物の中で生きてゆかなければいけないからこそ、駆除や射殺などの残酷で傲慢な手段も含めて、必死で関係性を構築しようと努力せざるを得ないのです。
人間は知識と道具を持ち、地球に生きる生物「ヒト」という種として、他の種よりも明らかに繁栄しています。だから傲慢になってもよい、というのではありません。自らの力が強大であることを自覚した上で、頭数管理や生息環境保全など、他の種に干渉して、どちらも生き延びるための手段を取らなければならないのではないでしょうか。
環境省の「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」、通称「種の保存法」の第1条にはこんな文面があります。
この法律は、野生動植物が、生態系の重要な構成要素であるだけでなく、自然環境の重要な一部として人類の豊かな生活に欠かすことのできないものであることにかんがみ、絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存を図ることにより良好な自然環境を保全し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。
絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律 第一章 総則
自然保護は人間サマのため、と読めますよね。上等だ、と僕は言いたいのです。アリが生きるためにアブラムシの世話をするように、ヒトは、他の生物種がいなければ生きてゆけないからこそ、自分たちが環境に与える影響を少なく、なるべく自分たちが生きやすいように、エゴイスティックに恐る恐る生きているのだと僕は考えています。
「自然のためには人間がいなくなればいい」と考えたことのある方は少なくないでしょう。でも、自然や地球のために自分たちの種を絶滅させることは、ひとつの命としてあってはならないことです。自然の力がどんなに強く大きくても、自然に人間が生かされているのではありません。自然の中で、僕たちは生き延びているのです。
【きれいでわかりやすい言葉に惑わされず、考えること】
「かわいそうな動物を助けよう!」と思ったときに、あなたが考えるべきことは「エサをあげなきゃ!」でしょうか? 「かわいそうな動物を助けるために自分に何ができるか、何をしないほうがいいのか調べてみよう」と考えたら、様々な手段があることに気づくのではないでしょうか。かわいいと感じたあなたにこそ、考えて欲しいことがあります。
クマの問題に関わらず、様々な環境問題は、要因が複雑で原因と結果がはっきりしないことが多く、なかなか理解することが難しいものです。「お腹を空かせた森のクマさんにご飯を届ける」という活動は実にわかりやすいものです。そして、そのわかりやすさは、「本当にこれでいいのか?」と考える機会を失わせる危険を内包しています。けれど、複雑な系に「これさえやれば問題なし!」なんて一発解決の妙手は存在しません。
自分が自然に、野生動物に、クマに対して何ができるか。そして何をしたいのか。「自分にできることから始めるよ」と、問題点が指摘されているドングリ運びに協力するのも、クマの生息場をつくり、人間生活への影響を軽減するためにできることを考え直すのも、あなたにしかできないことです。
生態学的視点からのクマ対策としては、環境省や富山県などが体系立てた計画を立案しています。これらを熊森の手法の代案として挙げるのは可能ですが、「何とかしたい」と考えているあなたの価値観の代案を挙げることは僕にはできません。僕が考えていることは本エントリで述べた通りです。自分がクマに対して、そして野生動物に、環境に対してどのような自然観で接しているのか、改めて考え直してみるきっかけになることを切に望みます。
最後になりますが、僕は日本の自然が大好きです。もしあなたが、よりよい環境を守りたい、次の世代へと遺したいと考えているのなら、僕とあなたは志を同じくする同志であるはずです。手段は様々ですが、「何ができるか」という強い願いが、願わくば未来に形になりますように。
ちなみに、冒頭で紹介した宇多田ヒカルさんは、その後「興味がある人は、まず自分で調べて、自分の意見と合うところを探すのがいいと思うよ!同じ目的でもみんなやり方が違うからね」とつぶやいていました。僕も同じ考えです。きれいでわかりやすい言葉に惑わされないように考えて、自分の自然観に合った活動に取り組むことが大切だと思います。
宇多田ヒカル 2:38 PM Oct 21stのtweet
【参考資料】
■環境省−クマ類出没対応マニュアル−クマが山から下りてくる−
→ 環境省による、クマの情報や対策をまとめた資料です。
■環境省−小中学生向け冊子「クマに注意!−思わぬ事故をさけよう−
→ 同じく環境省の資料です。小中学生向けにまとめられた、わかりやすいクマの情報です。出会ってしまったときの対策や、普段から気をつけるべき点をまとめています。
■富山県−ツキノワグマ保護管理計画
→ 富山県による、ツキノワグマに対する保護や個体数管理についての計画です。詳細なデータがあります。
■知床財団−お騒がせの斜里市街地ヒグマ出没
→ 冒頭に紹介した北海道斜里町のヒグマ出没についての記事です。知床財団は、知床世界自然遺産の管理や情報公開を委託された環境と生きもののプロ集団です。
■エゾリスの会 非公式ブログ!−おすすめしません野生動物への餌付け
→ 北海道帯広市で活動するエゾリスの会の方がまとめられた、「野生動物に餌付けすること」の問題点についての記事です。
■厚岸水鳥観察館−餌付け・給餌活動の問題点の整理
→ 北海道厚岸町のラムサール条約認定湿地、厚岸湖のほとりにある施設がまとめた、餌付け・給餌の問題点です。主に水鳥について書かれていますが、他の動物についても同じ問題を抱えています。
■Togetter−日本熊森協会への簡潔な反論
→ twitter上で発言された、日本熊森協会への問題点についての発言をまとめたものです。
■日本熊森協会
→ 日本熊森協会のwebサイトです。活動内容や方針のほか、熊森関連のニュースが積極的に更新されています。
【追記】【熊森の活動に対する僕の主張・まとめ】
このエントリ投下後も議論が続き、2011年2月現在、このエントリを含む5つの記事を書いています。上記の「日本熊森協会」が提示する「クマの餌としてドングリを森にまく活動」を、”野生動物への餌付け”という点から、クマと人間の双方にとって問題がある活動だと感じて批判しています。興味のある方はお読みいただけると嬉しいです。
■絵本「どんぐりかいぎ」で学ぶ熊森ドングリ運びの問題点(10/11/27)
かがくのとも絵本「どんぐりかいぎ」を読み解き、種子の繁殖戦略からドングリ運びの問題点を指摘するとともに、代案の必要性について考えました。
「どんぐりかいぎ」では、ドングリが凶作の年には、何らかの理由で増えすぎた動物たち――リスやネズミ、それにクマ――を少し減らし、適正な個体数に戻す役割がある…とされていました。そこにドングリをまいてしまうとどうなるでしょう?
ドングリ運びは森全体にとって「余計なお世話」であると言えるのです。
自然保護や環境保全を考えるにあたっては、その場で死にそうになっている命を救うことよりも、その命が継続的に生きていけるための環境そのものを守ることを考える必要があります。「緊急」「お腹をすかせたクマ」「かわいそう」などの言葉に惑わされ、ひとつの命を救うことにこだわりすぎると、そのせいで失われるたくさんのものが見えなくなってしまうのです。
■熊森関東支部の「春にもドングリをまく」案に反対します(10/12/13)
熊森関東支部の春にもドングリをまく・天皇陛下に手紙を書いてクマを天然記念物指定にしたいとの活動計画に対して、改めてドングリ運びの問題点を指摘しました。
仮に、秋に大量に集めたドングリを腐らせず、病原菌を発生させずに保存し、今秋のように山に運ぶことができたとしましょう。春先の山のあちこちに、10キロ20キロのドングリの山ができることになります。凶作だったはずの翌年に、芽も根も出さず大量に積まれたドングリ……。これが不自然でなくてなんでしょうか? 本来であれば山菜や若芽を食べる時期のはずですが、随分と食べ応えのありそうなドングリがそこかしこに山積みに。
この活動はクマにペットフードをあげて「お腹が一杯になったね、よかったね」と自己満足しているだけのものだと言いたいのです。それで、この後クマはどうなるのですか? あるはずのなかったドングリを探し求めるのですか? そうしたらまたドングリを運ぶのですか?
……いつまでそんなことを続けるつもりですか? クマはあなた方のペットではありません。自立して生きる野生動物なのですよ。
■毎日新聞さん、熊森ドングリ運びはただの美談ですか?(10/11/27)
熊森協会の主張を鵜呑みにし、好意的で一面的な報道を行う毎日新聞ほかメディアの報道姿勢に疑問を投げかけたエントリです。
熊森協会のドングリ運びは、「全国から届けられたドングリを有志が山に運び、お腹をすかせたクマさんに届ける」という美談ですが、大きな矛盾や問題点をはらんでいます。「いい話だね、クマさんもお腹いっぱいでよかったね」なんて紹介で終わってしまうのは、「野生動物と人間はどう付き合うべきか?」という問題の本質から目を逸らした思考停止に他なりません。
ちょっと調べれば、分かり易い問題点の指摘がいくらでも見つかります。毎日新聞のみならず、提灯記事とも言える好意的な報道を続けるメディアに、僕は「それでいいのか?」と強く疑問を感じます。
■「クマがかわいそうだから殺さないで」と感じる皆さんへ
僕の体験談と、山里に暮らす方の手記から「クマはかわいいだけでなく恐ろしい動物でもある」ことについて考えました。
想像して、考えてみて欲しいのです。実際にクマの被害を受けている方にとって、「クマを排除して欲しい」という願いは不自然なものでしょうか? 自分の命や財産が失われる危機が迫っている方に対して「クマの命の大切さ」を説くのは、はたしてどのような印象を与えるでしょうか?
クマはとても愛らしく、命にあふれた力強く美しい生き物です。そのクマが捕獲されたり殺されたりすることには、何かしらの理由があります。「かわいいから」「かわいそうだから」と言う前に、クマの恐ろしさについてもよく知り、想像力を持って対策を考えてゆくことが必要ではないでしょうか。