紺色のひと

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アサイさんの引越し前夜

一昨年の秋に独り暮らしを始めて一年と半分、僕は居を移すことにした。
この大学の傍のアパートは学生ばかりで、ほとんど部屋に帰らない僕はその学生っぽい雰囲気に浸ることができず、結局部屋はただ職場から戻って寝る場所としての機能を忠実に果たし続けた。
部屋の中を片付けていると、昔別れた恋人からもらったカラシニコフの時計の箱が出てきた。腕時計をつける習慣がないのだけれど、時計そのものは気に入っていた。仕事や休みの日につけていたけれど、もらって半年もしないうちになくしてしまった。その時計の仰々しい箱が棚の奥から出てきて、僕はなんの感慨もなく、これを捨てることにした。
アパートの斜向かいにあった古い下宿は、先月火事で焼けてしまった。先週から取り壊しが始まり、もうほとんど残っていない。
身の回りが移り変わってゆくのを、自分以外のものを見て感じている。自分だけが変わっていないとかそういうことを言いたいのではなくて、自身のことを振り返って考える機会が少なくなっているのを感じていて、それで昔の自分と今の自分を比較しないから、相対的に周囲の変化で時間やものごとが移り変わっているのを実感している、ということだ。
近所のラーメン屋に行き、大きなチャーハンを食べた。以前食べたときよりしょっぱかったけれど、僕はチャーハンの味について「移り変わってゆく」なんてことを考えるほど難しい頭をしていないので、無理やり腹に押し込んだ。
帰り道ではどこかの家の梅の花が開きかけていて、来週、嵐が過ぎた頃にはこの街でも桜が咲くのだろう。
万物流転とは昔のひともうまいことを言ったものだ、と心から思う。流転するからと言って僕はただ流されてゆくつもりはないし、例の如く逆らいながら、僕は僕の澪筋を辿る。そういう心持ちで生きてゆこうと思う。