紺色のひと

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すべての道具を知恵で揃えること

ふとん乾燥機を譲ってもらった件の古本屋の店先に、なかなか丈夫そうな折り畳みテーブルが立てかけてあって、千円の張り紙がしてあったので買った。欲しかったサイズよりも一回り大きいけれど、まあ、汎用性がありそうでいいかと考えた。乾燥機を買ったときから買おうかと悩んでいたのだけれど、模様替えをしてから考えようと先送りにしたら日曜は休みで、今日仕事が終わるまで店が開いているかなあと心配になっていた。
僕の、リサイクルショップや古道具屋における引きのよさには定評がある、というよりも自分でかなりのセンに行っていると勝手に思っていて、それはただの運とかではなくて、こまめに通ったり買い時を逃さないという現実的な問題だとわかっているのだけれど、買い物に限らず誰かから譲ってもらうとか道で拾うとかを含めての「引き」で、なんだか道具が自分の身の回りに集まってくるような気さえしている。小さい頃にがらくたを拾い集めて大事なものを入れる袋がそれらでいっぱいになった記憶が今になって生きているのだろうと考えていた。
もので溢れた生活をするつもりはないけれど、必要であるかどうかを考えて、あるといいなと思うものが手に入る、というのはとても気分がいい。要は、方向音痴を足でカバーするのと同じだ。


そう、店主が「そこらへんのね、古本ね、二三冊サービスしますからね持ってっていいですよ」と言ってくれたので、「合コンの教科書」なるものとレイモンド・カーヴァーも書いている短編集をもらってきた。読むと読まざるに関わらず、「本棚にあると面白いな」と思ってしまうのは悪い癖だ。「もっと『モテる男』になる方法」という本も本棚に並んでいるので、たまに読んでは苦笑している。本の引きは、というといいのか悪いのか微妙なところだ。