紺色のひと

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ブルカニロ(最終稿)

「学問ってものはね、」
そう、先生は話し始めた。講義室は静かで、誰もが彼の話に耳を傾けている。曇りガラスの窓がわずかに開いて、温かな風が時折吹き込んできていた。
「今の学問は、ものすごくたくさんの分野があるでしょう。私がやっている地理学にもいろいろあるし、社会学だったり物理学だったり人文科学だったり、それぞれの学問の分野すべてにいろいろな役割がある」

胸の前に合わせた手のひらを組み替えて先生は続けた。
「でも、細かくなるだけでは駄目なんです。学問には、その全てに通ずる大きなひとつの流れがあって、細分化された分野ひとつひとつに与えられた役割がある。それを考えてゆかなければならないんです」
「そして、最終的には――今みなさんが学んでいる環境問題ということについても、全てを見通せるような学問体系が確立されなければ、ならない。環境に負担をかけないエンジンを造っても、それをいかに普及させるかを考えるひとがいなければ意味がないのと同じです」
「つまり、学問というものは、統合を前提として細分化されなければならない、ということです。だからみなさんの専門が決まっても、それが学問全体でどのような位置を占めているか、それをしっかり考えてみてください」

話し終わると先生はいつものように右手についたチョークの粉をぱんぱんと払って、持ってきた本をまとめる。授業が終わり、みんながぱらぱらと講義室から出てゆく。僕は今の話を思い出そうとしてノートを見た。いつ書いたのか、上の空白に小さく『学問は統合を前提として細分化されねばならない』と文字が並んでいた。紛れもなく僕の字だった。

「ほら、行かねぇの?」
友人の声にあぁ、と曖昧に答え、僕も椅子から腰を上げて教室を出た。
「だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなかればいけない。それがむづかしいことなのだ」
『銀河鉄道の夜』でブルカニロ博士の言った言葉が僕の頭の中を駆け巡っていた。先生のくるりとした目が博士のイメージと重なった。

教養棟から出た僕らを包んだのは午後の強い光だった。夏が近い。そう遠くない未来に僕は思いを馳せ、太陽に手をかざした。

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補足

この文章は2006年1月に書いたものの再録です。
タイトル「ブルカニロ」は、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」第三稿に登場する博士の名前です。広く知られている最終稿には「セロのような声」としてのみ残っており、博士の名前は登場しません。

「だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなかればいけない。それがむづかしいことなのだ」

学生の時分の僕はまだ宮沢賢治にかぶれており、先輩方を送る会の席で「あすこの田はねぇ」を朗読するような若者でした。