紺色のひと

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自然のために、いきもののために、できることってなんだろう?

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本記事は「結婚披露宴の写真を頼まれても、お断りする理由がある」にいただいたコメントへの返信として、人間と野生動物の関係性であるとか、あるいは自然環境の保護・保全活動にかかわる際の心構えとか、僕が普段考えていることを書いてみました。
結論のないぼんやりした話ではありますが、「自然のために何ができるんだろう?」とお悩みの方の参考になれば嬉しいです。


まずはじめに、いただいたコメントを引用します。

猫ボラ
はじめまして。
過去に熊の記事(特にどんぐり運び)を載せていらっしゃいましたよね?違ったらお手数ですが、すぐに削除して下さい
こちらから、本当に失礼を承知で書かせていただきます。
長文です。気が向いたら読んでくださればと思います。


 私も動物が大好きです。
 どんぐり運びとは熊のためになるのか、エゴではないのか、私がそもそも野生動物を助けたいという思い自体、上から目線なエゴではないのかと人や動物のボランティアを見ていてふと思いました。(まず、自立してからボランティアをしようと考えている学生です)


 そんな疑問が一気に解決されるような素晴らしい記事でした。
 結局、人と森の境目を作り(里山や鉄?の柵)、森にできるだけ入らず(と言ってもアウトドア好きな方は無理ですよね…片付けや熊に襲われないように準備や知恵をつけてから入ることでしょうか)不要な開発をせず…


それくらいしかないのでしょうか。
しないことをするしか。


 でも、私は…どうしても彼らのすみかである森を奪い(都会のように共存ではなく人だけが住める場所になってしまった…確かに鳥類やその他の動物も適応していたりしますが、環境を変えてしまった)、彼らを飢え死にや殺してしまった。(勿論熊にかてっこないので仕方のないことだとはわかってますでも…)


 そう思うと何かしたいと思ってしまいます。
 でもすべきではないのでしょうか。


 私が一番怖いのは、熊が絶滅すること、それによって生態系が崩れ、今度はシカが増え、山は崩れたり、だからって殺し(言葉は悪いですが)、そのせいで森の木が増え(鹿に食べられなくなったぶん)、日が入らなければ虫や鳥も減り、今度は別な生き物が減り…最後に何もいなくなっちゃうのではないのかということです。(オーバーに言っているのではなく…本当にそうなってしまうのではないかと考えてしまいます)


 イエローストーン公園では狼を導入されたようで、効果を上げているようですが、また今度狼が増えたら、危ない→仕方のないことだ、殺そうとなるのか、不安で仕方ないです。
 結局オオカミを殺したことで鹿が増え農家の人たちは困るし、鹿も死ななきゃいけない。オオカミを例にあげていましたが、クマだって他の動物だって同じです。生態系のピラミッドのどこかを崩せば全部が崩れる。でもピラミッドの頂点が強すぎて崩すしかない。短期的には安全で助かったと思っても結局何年かしたら鹿にぶつかる事故が増えたり、山が崩れたり畑の被害にあったり…くまに殺される命は助かっても生活が成り立たなくなれば結局死んでしまう。


 全員がちょっと無理をしてでも今よりは良くなる何か方法はないのでしょうか…
 現状は何度も挙げさせていただいた、環境を理解し、しないことをするしかないのでしょうか。


 ここまでもし読んでいただいてくださったのであればとても感謝致します。できるだけ感情論すぎず、だからってならなすぎず、現実を考え、バランスよく考えるようにと常日頃に考えてはおりますが、どうしても動物のことになると感情的になってしまうので、…まとまりのない文章になってしまいました。でも人様に押し付けようとおもっているわけではありません。


 どうしても聞いてみたかったとはいえ、失礼なことをしてしまって申し訳ありませんでした。

結婚披露宴の写真を頼まれても、お断りする理由がある - 紺色のひとコメント欄より引用しました


猫ボラさん、コメントありがとうございました。返信が遅くなってしまってすみません。
コメント、何度も読み返しました。生き物や環境、いのちに対する切実な思いと、何かしなければならないのでは……けれど……という葛藤が強く伝わってきました。
僕なりに考えた結果、こうしたかたちで返信させていただきます。たぶん、猫ボラさんと似た思いを抱えている方が、他にもいると思います。その方々にも届きますように。


最初に書いておきます。
「あなたにも、自然や野生動物のためにできることが、必ずあります。」
「今より自然環境を良くする方法を探すのは、難しいかもしれません。」
「でも、今より悪くしない方法なら、見つけられるはずです。」

とりとめもない話ですが、気軽に読んでみてください。


窓ガラスにぶつかってしまったミソサザイ。この後元気を取り戻して飛んでいきました


生き物のいのちと人間、生態系について

自然や生き物はそれ自体が尊いものです。また人間は、狩猟や家畜、農業、それ以外の様々なかたちで、生き物の命や自然を生きるために利用してきました。その大前提に立てば、「人間が他の動植物のいのちを奪い利用する」ことは、生物として当たり前の営みと言えます。
それでも、人間のために今まさに奪われそうになっているいのちや、人間が原因となって奪われてゆくいのち……こういったものたちのことを考えると胸が痛みます。それもまた、心を持つ人間として当然のことだと僕は考えます。

生き物は、それぞれが関係し合いながら生きています。食べたり食べられたりという”被食・捕食”の関係だけでなく、いろいろな生き物が複雑に関わりしながら生きている関係性のことを「生態系」といいます。こうした、いろいろな場所で、いろいろな種類の生き物が生きていることを示すのが「生物多様性」ということばです*1

なにかが減ったり居なくなったりすると、この関係が崩れてしまって、思いもかけない別のところに問題が生じてきたりします。こうした関係性は一度崩れてしまうと元の状態に戻すのは難しい、不可逆のものです。だから「生態系を守ろう」と言われているんですね。


牧草地に群れでやってきたエゾシカ。ここは酪農のための農地です


野生動物と人間との関係

さて。
野生動物と人間との関係性は時代とともに変化してきました。人間は集団で(動物として捉えるなら群れを、社会をつくり)暮らす生き物です。人間が集まるところは集落となり、またこれらも時代を追って町となり、一部は都市となりました。

よく「人間が森を切り開いて動物たちのすみかを奪った」「人間が責任をとるべきだ」なんて話を聞きますよね。
日本はとても山が多い地形なので、人間が暮らそうとする平野部や川の周り、山際は、もともと大森林ではなかったはずです。とはいえ、古くから木材として使うために、山奥の木を伐って運び出したりはしていたので、「人間が動物のすみかを奪った」のも正しいとは言えるんです。

ついでに考えてみましょう。人間が木を伐って利用していたのは、ずっと昔からです。奈良や京都のお寺だって、みんな山の木を伐って作られています。千年以上昔からそうしてきました。それが、人間の営みだったからです。
さて、「人間が責任をとる」というのは、どれくらいさかのぼって考えればいいんでしょう? 高度経済成長期? 明治時代? 江戸時代? 平安時代? 誰が責任をとればいいんでしょう? 山に住んでいるひと? 都会暮らしをしているひとには関係ない? そして、どうやって責任をとればいいんでしょう? 動物に森を返す? どうやって? 人間はどこへいけばいいでしょう?

……いじわるな問いでした。この「人間が責任を~」という考え方を突き詰めていくと、この国で、この地球上で人間が生きる場所はなくなってしまうことになります。「動物たちのためなら人間は絶滅すべきだ」という極端な考えを持つひとはおいておくとして、住めなくなるのも困りますよね。

動物がいなくなっても困るし、かといって動物たちに自分たちの生活の場を奪われても困る。だから人間は、野生動物と適度な距離をとって暮らしてきたのです。
ここ数十年で、わたしたち人間の、日本での生活はまた大きく変化しました。高度経済成長期の公害や環境汚染、バブル期のリゾート開発といった直接的な人間活動により失われた自然もありますしし、また地方の人口減少や高齢化といった社会的な問題を通じて表に出てきた、クマやシカの出没といった獣害問題もあります。
今、日本で行われている獣害対策は、こうした「野生動物と人間との距離を考え直そう、維持しよう」というものです。


雪深い河川敷を進むエゾシカの雄


自然に、野生動物に、わたしたちはなにができるだろうか?

どうやって関わるか

猫ボラさんのコメントは、この問いに集約されています。

全員がちょっと無理をしてでも今よりは良くなる何か方法はないのでしょうか…
現状は何度も挙げさせていただいた、環境を理解し、しないことをする*2しかないのでしょうか。

実際に、野生動物やいのちの問題に対して取り組むには、実にさまざまなやり方があります。
例えば猫ボラさんは、おそらく猫に関するボランティア活動――里親探しだとか、野良猫のレスキューだとかでしょうか――に取り組んでおられるか、これからやろうとお考えなのかなと想像します。猫に関してでも、いろいろなやり方があるでしょう? 里親探し活動をしているところから猫を引き取って飼うのだってそうだし、動物愛護団体が主催する保護活動を友達に広めるのだってそうです。

野生動物や自然保護、環境保全についても同じです。いろいろなやり方があります。実際に自らが山の中に分け入って活動するものも、事務的なものも、家の中でやるものも、日常生活の消費活動を通じて貢献するってやり方もあるんです。たとえば国産間伐材を利用した割りばしを積極的に使えば、それは荒れたスギ林の整備につながるお金を自分が担保していることになります*3
たとえば自治体や環境教育団体が主催する地域の自然観察会に参加すれば、身近な自然で守るべきものについて知ることができるかもしれません。
でも、関わり方をよく考えなければいけません。僕が熊森協会のどんぐり運びを繰り返し批判してきたのは、「どんぐり運びは何かをやった気になって満足感が得られるけれど、本当にクマのためになっているかはわからない、むしろ害になっているかもしれない」からです。

今、わたしたち人間は、自然を少しずつ使い潰しながら生きています。自然を良くすることは難しくても、悪くしないように、気を付けて自然と一緒に生きていく方法は身近にあるはずです。そのために自分に何ができるか、考えていかないといけないですよね。


奈良公園のニホンジカ。完全に人馴れしています


環境保全活動に取り組むにあたっての心構え

だから、自分が自然や野生動物のために何かをしようと思ったら、次のようなことに気を付ければいいのではないでしょうか。僕が普段から考えていることをまとめてみました。
自分が手を動かすことも、そうでないのもあります。自分の生活の中で、無理なく続けられるやり方を見つけられるといいですね。

  • 行動するばかりが活動ではない。自分が守りたいもののために、何をするべきで、何をしないべきかをはっきりさせよう。
    • マザー・テレサは「愛は、言葉ではなく行動である」との言葉を遺したというが、手段と目的がすりかわった行動は自己愛でしかない。野生動物への愛を持ち、彼らのためにできること、しないほうがいいことを考えよう。「これをやれば解決」という魔法のような対策はない。わかりやすいものに飛びつかないようにしよう。
  • 効果があらわれるのには時間がかかる。焦らず、絶望しないようにしよう。
    • 植林とか緑化とか、環境教育とか。自然保護とはとかく時間がかかるもので、結果も出たのか出ていないのかがわからないようなものもある。「未来への橋渡しをする」「子世代に受け継ぐ」といった言葉が使われることが多いけれど、「自分の活動はその一部分を担っているんだ」と考えよう。
  • 地球はあまりに広大で、自然はあまりに多様だ。理想は高く持ってもいいけれど、現実的な着地点も一緒に考えよう。
    • 破壊されるのは仕方ないから我慢しろ、という意味ではない。例えばあなたが自然保護団体にいて、自分の守りたい環境が工事によって失われてしまうかもしれないとわかった。あなたに工事を中止させなければいけない理由があって、その正当性もあるならそのための行動をとるのもいい。一方で、工事による代償行為を現実的なものにするために案を出す、というのも立派な活動だ。譲歩というと負けた気がするかもしれないが、頑なであろうとするほど問題はこじれるかもしれない。
  • 自然保護は、自然や生き物のためであると同時に、わたしたち人間のためでもあると考えよう。
    • なんでも手つかずにしておけばいいというわけではない。里山や湿地など、人間が手を入れることで守られてきた環境も数多くある。きれいな景色も、いろいろな生き物も、人間が自然から受け取ることができるもののひとつだ。ちょっと損得勘定みたいだけれど、こういう考え方で守ることができる自然が確かにある。
  • 情報を広く発信し、広く受け入れよう。
    • 仲間は意外と多いし、自分の考えが間違っていることもある。いきものに詳しいひとでも、環境保全活動の考え方としてはちょっとズレていることもある。広く知識を取り入れ、交流しよう。批判的な話にも理があるかもしれない。耳を傾けてみよう。


遊覧船から餌をもらうオオセグロカモメ。観光地ではよく見られる風景ですが、餌付けの是非についても議論が続いています


最後に部分的な返信

猫ボラさんのコメントへの部分的なお答えとして、以下の2点を捕捉します。

イエローストーン公園では狼を導入されたようで、効果を上げているようですが、また今度狼が増えたら、危ない→仕方のないことだ、殺そうとなるのか、不安で仕方ないです。

なると思います。イエローストーンのオオカミ再導入も成功事例として語られていますが、周辺農家さんへの補償が大前提ですし、その農家さんからも不安や不満の声があるとも聞きます。

私が一番怖いのは、熊が絶滅すること、それによって生態系が崩れ(中略)最後に何もいなくなっちゃうのではないのかということです。

「最後に何もいなくなる」というのは、ほぼ考えられません。安心してください。ただし、何かが絶滅したり、外から別の生き物が入ってくることで、その場の生態系が非常に貧弱に……つまり、限られた生き物しか生きられなくなることはあります。たとえば、小魚や虫がたくさん棲んでいた小さな池に、アメリカザリガニと肉食のブラックバスを放したら、最後にはほとんどザリガニとバスくらいになってしまった、とか。


早春、道路に出てきたエゾシカ。雪解けの早く除雪も入る道路沿いは動物にとっても歩きやすく、移動経路になっているとともに、交通事故も発生します


関連記事と参考書籍

拙ブログ「紺色のひと」では、クマの人里への出没を代表的なテーマとして、野生動物などに関する記事をいくつか書いています。ご興味があれば、併せてお読みください。


参考書籍です。特に「動物を守りたい君へ」は非常に読みやすく、考えの参考になってくれるでしょう。

動物を守りたい君へ (岩波ジュニア新書)

動物を守りたい君へ (岩波ジュニア新書)

野生動物と共存できるか―保全生態学入門 (岩波ジュニア新書)

野生動物と共存できるか―保全生態学入門 (岩波ジュニア新書)

*1:「生物多様性」は、言葉通りに「たくさん生き物の種類がいること」ではありません。生物多様性には「種の多様性」「遺伝的多様性」「生態系の多様性」この説明もごくごく簡単なものですので、こういったWebサイト(生物多様性とは | 生物多様性 -Biodiversity-「生物多様性」はなぜ大切?|なごや生物多様性センターなど)を参考として読んでみてください

*2:この「しないことをする」というのは、僕のブログ記事 http://asay.hatenadiary.jp/entry/20101127/1290860809 で再三書いている「ドングリ運びは余計なお世話」「やらないほうがマシなので代案は『何もしないこと』」という話を受けているものと思われます。

*3:割り箸は高級な木工品だ! 国産割り箸復活の兆し(田中淳夫) - 個人 - Yahoo!ニュースなどを参考に。