紺色のひと

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銃のあけぼの

2014年12月22日、空気銃を持った。
狩猟免許試験(第一種銃猟、わな猟)も2014年の秋に受かっているので、あとは自治体に狩猟者登録をすれば晴れて出猟できるのだけれど、今年は日程の都合上無理そうなので、射撃場が空くのを待っている状態だ。

一年前、「持とうと思った」ということを書き散らした「銃のさざなみ」のように、今回もまとめず、推敲せず、書き散らしてみる。


おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                山ねこ 拝
宮沢賢治「どんぐりと山猫青空文庫


銃を持とうと思ったのは、自分で鳥を獲って食べてみたいと思ったからだった。
子供の頃は釣りで、学生の頃は網やなんかで、自分で捕まえて食べることへの興味はあったと言っていいと思う。僕が「そろそろ銃による狩猟に関わろう」と思ったとき、世間が折りしも狩猟ブームと呼ばれる頃だったのは、天邪鬼の僕にとって気分のいいものではなかった(特に空気銃による鳥猟がやってみたかった僕にとっては「山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)に影響されたんでしょ?」と言われるのは苦痛だった。面白く読んではいるけれど、狩猟への興味は以前からあったのだ)が、情報は集めやすくなるだろうと割り切ることにした。



持つまでの苦労話みたいのは特になく、申請が面倒くさいなあとかそういう気持ちはあるものの、概ね順調だったのではと思う。そのあたりの「どういう手順で申請すればいいか」とかそういう話は銃砲店や個人ブログでごろごろ出てくるので、ここで紹介することはしない。興味を持ったら、web経由で調べて、最寄の銃砲店(僕の暮らす町は幸いなことにいくつかの銃砲店があって、選ぶことができた)に相談に行けばいいと思う。
今のところ、所持しているのは空気銃一丁。今のところ、銃種をここで明らかにすることはしないつもりだ。リスク面とかそういう話だが、断片的な写真から他の所持者に気づかれるのはまあいいか、くらい。




2010年頃、ひょんなことをきっかけに、クマや獣害関連の勉強を始めてみた。それまであまり知らなかった分野で、シカやイノシシによる農業被害やハンターの減少が叫ばれつつあった。2014年現在、新聞でジビエの文字を見る機会は随分増え、有害駆除と食肉への有効利用についてあちらこちらで取り組まれている。
しかし僕はあくまで「銃猟を始めるのは自分の興味のためで、社会的な要求によるものではない」とのスタンスを崩したくはない。今後どうなるかはわからない――というか、有害駆除に関わることになるだろうという予測はあるけれど、まだ装薬銃(散弾銃など火薬を用いて発射する銃)を持つ決心がついていないこともあって、あまり具体的に考えてはいない。


「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」と云った途端とたん、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞まいおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片かたっ端ぱしから押えて、布の袋ふくろの中に入れるのでした。すると鷺は、蛍ほたるのように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜青空文庫

僕にとって鳥捕りは「銀河鉄道の夜」の中で印象深いキャラクターだけれど、彼は作中で銃を使って捕まえているわけでもなく、僕の狩猟への興味のルーツをここに見出すことはできない。一方、この鳥捕りのモデルがこぎつね座だという話も聞いたことがあって、キツネになんとなく親和性を覚える僕はなんだかにやけてしまうのだった。



「銃を持つ人が増えると日本が戦争に向かう」「狩猟ブームは首相と環境省が先導する戦争への第一歩だ」とかいうことを真面目に言っているひとがいるというのは驚きだけれど、そういうひとと正面から言い合いをするつもりはない。馬鹿馬鹿しいからだ。「銃で殺すのは残酷だ」はまだ気持ちとしてわかるけれど、不毛なのでそのへんの話はしない。自分がわかっていればいいと思う。



「なぜ銃を持つか」ということをきちんと言語化する必要はあると思っているが、別に高尚な理由は必要なくて、「なんでハンターやってるんだろう?―活字にして見直す狩猟の魅力」さんで述べられているような「人とは違うことがしたい」とか「浪漫だ」とかでいい、と僕は思っている(僕個人として浪漫だとは思っていないけれど)。
という言い方をしたのは、昨今の狩猟ブームに関する言説を見ていると、「狩猟に関わるひとはみな、里山の荒廃やハンターの減少を憂い、社会正義に貢献するために行わなければならない」みたいな雰囲気があるように感じられて、それが受け入れがたいからだ。もちろんそれが重要でないと僕が思っているわけではなくて、動機や目的は個々で違って当たり前だろ、というだけの話ではあるのだけれど。
また、僕がハンターになったわけ〜銃社会ではない日本で、銃を持つということ〜−ひろろ〜ぐさんのように、文化的・精神的側面からの動機を述べることができるのも素晴らしいと思う。



自分の持ち物には名前、固有名詞をつけたいと思う派で、そういう子供っぽいというか中二っぽい習慣を未だに持ち続けている。銃を持つことになったらつけようと思っていた名前があるのだけれど、それをここで書くのは恥ずかしいので割愛する。銃の製造国とつけた名前の言語が異なるのはご愛嬌だ。



今の僕のいちばんの懸念事項は、獲物のことでも実射のことでもなくて、とびどぐを持ってしまったことで、山ねこから「めんどなさいばん」の招待状が来ることがなくなってしまったな、ということなのだった。