紺色のひと

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時には写真の話を

ここ一年くらい、休日にカメラを持ち出すことが減っている。カメラが重いとか、おむつセットをザックに入れるとカメラのスペースがなくなるとか、細かい理由はいくつか思いつくのだけれど、一番自覚があるのは「積極的に写真を撮ろうという意欲が薄れていること」で、でもその理由はきちんと説明できない。
デジタルカメラですらこの有様なので、フィルムカメラを持ち出す機会ったらもうもっと少なくなっている。妻は毎度のお出かけの度に重たいフィルムを鞄に入れていて、僕はもうちょっと精密機械なりの扱いをしてあげたほうがいいんじゃないかと言うのだけど、それでも妻がそうして撮った写真を見返すと、やっぱり続けて撮っていることが写真の力になるのだな、と感じる。



それで、急に写真のことを考え出したのは、僕が去年の秋くらいから今年の春にかけてようやく一本撮りきったフィルムがようやく現像からあがってきたからで、中身は妻と娘の写真がほとんど、残りが出かけた先の景色だった。今から8年くらい前にフィルムで撮った写真は風景がほとんどで、ひとりで暮らして仕事に行っていたからそれも当然なのだけれど、やっぱり写真はそのひとの生活を文字通り写し出すものだな、と改めて実感したりした。
出張先でカメラを取り出していた頃はなんとなく「さびしい写真」が撮りたいと思っていて、今僕が撮った写真は自分で見てもそう感じることがなくて、どういうものが撮りたいとか、どういう気分の時に撮ったかを意識すると、見返したときにその気持ちが鮮烈に思い出せる。そういう意味では、最近の写真は「洞爺湖に遊びに行ったときに写真だ」とか「六花亭でケーキを食べているときの写真だ」という状況はわかるのだけれど、そのときに自分がどんな気持ちだったかまではうまく思い出せなくて、言い方を変えれば、記録という名目で漫然とシャッターを切っているに過ぎない。


それでも、不思議なことに今回あがってきた写真を見ると「ああおれが撮りそうな写真だな」と自分でも感じてしまって、自分らしいという大仰な言葉は似合わないけれど、昔意識していた「さびしさ」というのはアングルだの被写体だのの選び方として、僕の中に残っているのかもしれないなと思ったのだった。
そういえば妻は僕の写真を見ると「シゲオくんももっとフィルムで撮りなよ」と言ってくれるのだけれど、ともかく、今回の現像は、僕にとってももっと積極的にフィルムを持ち出したいなと思うきっかけになった。



ここまでだらだらと書いたのにはもうひとつ理由があって、フジフィルムの現像サービスであがってきた写真データを、flickrに直接貼り付けてみたら、1枚が数百KB〜1MBくらいになって、ブログにあげる写真データとしてはちょっと重いかなと思って、あの懐かしい「写真読み込み時間を稼ぐための縦スクロール幅」代わりにして欲しかったからだ。
娘と妻と、家の近所の写真を除いてここに残してみる。



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総理と呼ばないで オリジナル・サウンドトラック

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