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紺色のひと

思考整理とか表現とか環境について、自分のために考える。サイドバー「このブログについて」をご参照ください

花の名という題名_2014

ずっと、「あの花の名はなんだ」というタイトルの小説を書きたいと思っている。
――花の名という題名 - 紺色のひと



仕事の内容や愚痴についてはwebに書かないようにしている。
誰が見ているかわからないから、という理由が第一にあるが、それ以前に自分が感じた不平不満がそもそも自分の能力不足に起因するものであるだろう、という意識が強くて、それを言語化することにあまり意味を見出せなかったのだ。



一方で、僕は中学生の頃から、「文章にすること」を自分の思考整理の手段としてきた。
それこそ好きな女の子に対する感情や、本やゲームの感想、ふと思いついた言葉や小っ恥ずかしい激情など、色々なものが当時のノートには書き散らかされている。
その続きとなるノートは、今も僕の鞄にいつも入っているけれど、当時よりも登場の頻度はずっと減っていて、例えばブログや、最近ではtwitterがその役割を果たすようになった。それはいい、最適化の結果のはずだ。



しかし、仕事が生活の中心になっていると不本意ながら言わざるを得ない今、仕事のことを文章化しないことで、僕は結果的に思考を文章化する機会を著しく減らした。ふと「詩を書こう」とか、「いい加減に仕事で感じたことについて書いてみよう」と思ったときに、僕の指はキーボードを前にして止まってしまう。自分の感情を言語化すること自体が難しくなってきているのだ。





文章化する機会が減ったからといって、相対的に口語での整理が上手くなったかというとそういうことでもなくて(そもそも僕は喋るのが苦手だったから文章であとから整理することを選んだのだ!)、上滑りばかりする口にもいい加減辟易しつつある。
仕事での対人関係、自分の能力、そしてなにより家族のこと。自分が何をしたいのか、何をすべきなのかということを、もっと真剣に考えるべきだと思い続けてきたはずだったが、僕はこれまで何をしてこれただろう。

自分の生活を確立させないことには、思考すらままならない。生活に追われていては、思考すらままならない。高校時代にああしたかったこうしたかった、というルサンチマンに追われる暇があるのなら、もっと今と先のことを考えるべきではないのか、と思ったりする。
――花の名という題名 - 紺色のひと

忙しいことは言い訳に過ぎない、限られた時間で何をしたかが求められているんじゃないのか。数年後に振り返って、あの時にもっと真面目に考えておけば、なんていうのは絶対に嫌だ。



通りがかった峠道では、谷筋にエゾヤマザクラが咲いていた。山肌で一番最初に色づいているはずなのに、どこか彼らが取り残されているような気さえする。それらを見て、きれいだ、と口にする自分が、焦りを覚えていないことに苛立つのだ。

「どうにも深刻さが足りない、お前には。」
――キリンジ「奴のシャツ」


(1,4,5枚目の写真は色調補正済み)


2014.05.10 23:35追記
 「花の名」の話が出たので。1枚目はソメイヨシノ、3枚目はニリンソウ、4枚目はオオタチツボスミレ、5枚目がエゾヤマザクラ…でいいと思います。