紺色のひと

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銃のさざなみ

感受性の豊かだった時代は過ぎ去り、荒ぶった心持ちを詩や小説に叩きつけることをしなくなった。心を平静に保つ術を得た代わりに、立ったさざなみの運動エネルギーを大切に覚えておくことができなくなった。

大人になるのはつらいことだ。



かねてからの検討事項だった、狩猟免許の取得について改めて考えている。初めてアイガモを捌いた18の頃ならともかく、命を自分の手で奪って食べることについて、今更大きな覚悟が必要なほど僕は子供でなくなってしまったが、これまでの生活で避けてきた飛び道具を持つことについては、自分なりになんらかの答えを出す必要があるだろうと感じている。


僕は武器の扱いが不得手で、だからといって徒手空拳に自信があるわけではもちろんないが、それでも自分の手足の届く範囲のものをどうにかしようとして拳法を修行した。稽古場で杖や棒や木刀を振り回してみたことはあるけれど、せいぜい杖が手になじむくらいで、自分のものとして武器を扱うには全く時間が足りないのだと思った。
狩猟を行うにあたって銃を、エアライフルを持つことを考えたとき、それは確かに自分の武器であり、同時に決して他人に向けることのない武力となる。まるで手の届かなかったものを破壊する力というのは、正直なところ僕の想像を既に越えていて、いいとか悪いとかを考えること自体が難しい。


練習を重ねれば、ひとを打ち倒すのはある意味とても簡単だし、とても難しい。幸い「そういう」場面にはめぐり合ったことがないけれど、この場でどうにかなったら無傷で切り抜けるのは難しいだろうなとか、このひと相手ではどうやっても通用しないだろうなとか、そういうことは日常的に考えてしまう。武器は自分の攻撃力を道具によって底上げするものであることは間違いなくて、それが自分の手を離れて、力の外注みたいな状況になることに僕は慣れていない。前述の「ひとを打ち倒す簡単さと難しさ」に照らしても、そのことをとても恐ろしく思う。先日も発生した誤射による死亡事故の例を引くまでもなく、大きすぎる力だ。




あらかじめ書いておくと、僕は昨今の、例えば北海道のエゾシカ獣害に対して何らかの寄与をしようと思って銃を持とうと思っているのではない。ではそもそもどうして狩猟免許を、なんてことを言い出したのかと言えば、獲ることそのもの、食べることそのものに対する興味が大きいというのがまずあって、そこに自分自身が関与してみたいなと感じたことが一点。もう一点は、自分の行く末を考えてみたとき、必要に迫られることがあるかもしれないと感じたこと。後者は割愛する。
生活のための能力として……なんて言うと自給自足でも目指すひとのようだが、そういうことではまったくなくて、生活を形作るプロセスのひとつとして獲る、食べる、を今一度意識しておかなければいけない気がしているのだ。
そのあたりは、あくまで「自分の能力」としてエゴイスティックに扱わなければならないと思う。



はっきり言うと、銃火器の類には苦手意識があって、これまでまるで興味を持つことがなかった。資料を読んだり検索したり、調べ始めてみると、やっぱり知らないことを知るのは面白くて、それ自体が楽しくなっている。
まだ結論は出ていないが、今まで考えたことのなかった「銃を持つ」ということに対して、僕の心には久しぶりにさざなみが起きつつあって、それが少し嬉しくもあるのだった。




(追記)
あまりに抽象的に過ぎるかと思ったので、メモがてら残しておくと、

  • 第一種猟銃、わな、網の取得
  • 所持は空気銃(二種)のみ

を目標・想定して、次の試験日に向けて狩猟読本や銃所持のしおりなんかをぱらぱらやっている段階です。
街中の銃砲店で話を聞いてみたら、「山賊ダイアリー」人気のせいか空気銃の、特にシャープ「エースハンター」の人気が高まっているらしく、なかなか興味深いですね(僕の今のところ希望するのは作中で使われているポンプ式とは異なるスプリング式で、目的もまた違うと思うので、「若いひとは山賊ダイアリーで…」みたいな話を聞いてちょっともやっとしたのを併せて書き残しておく)。
なぜかプレチャージ(PCP)式には苦手意識があるのだけれど、それは僕の天邪鬼から来ている(現代で使用されている空気銃猟の多くがPCP)のか、それとも精神的な部分なのか、僕の無知から来る思い込みなのか、そのへんはよくわかっていないので、その苦手意識が本当なのかどうかも含めて、もう少しきちんと検討すべきだろうなと思っている。