紺色のひと

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最期の終末

まあその、なんだ。
僕の話です。



僕にとって、24歳という年齢はちょっと特別だった。
高校生くらいのとき、自分がこの先どんなふうに歳をとっていくのかを想像してみたことがある。高校を出て、大学に通って、仕事をして、24歳になって、そのあとがぷっつり途切れて、次の僕はじいさんになっていた。近所の若者にうざったがられながらも飄々としている、変わったじいさんだったと思う。高校生当時の僕の想像力の限界が24歳ということだったのだろう。若者にとっての大人で、若者のことも理解できそうな、都合のいい年齢。
僕にとってこの24歳の呪縛はなかなかに大きく、「25歳になるまでにやったことないことをやらなければ」と思って取り組んだのが初めての女装だったりと、今も引きずっているやっかいなものだ。


あれから5年。
僕は30歳になる。


この5年間について”いろんなことがあった”という言葉でひと様に総括できるほど僕は自分の生の密度を高く評価してはいない。それでも、友人を喪ったり、結婚したり、初めて海外旅行に行ったり、子供が産まれたり、国家試験に通ったり、太ったり、自分の歴史みたいなものが少しずつ形成されてきたことは認めてもいいと思う。ひとつひとつの出来事は、webに書き散らかしたこともあったし、あえて書かないようにしてきたこともあった。
僕にとって、webへのアップロードは、言語化することでの思考の整理も兼ねているから、言葉にされなかった記憶――主につらいものだ――は少しずつ薄れ、そこから派生して考えるようになったいくつかのことが年表の中で鎮座している。ヒーローになれなかったこととか、登場人物になりたかったのだと気づいたこととか、自分のことに興味があるくせに評価するのは嫌いなこととか、主にそういうことばかりが。



僕は焦っている。
だから、そろそろ言葉を選ばずに書こう。


大人になるのがこんなに難しいとは思わなかった。環境教育の場で、かたくなに子供たちに「おじさん」と呼ばせなかったことはその意識と何の関係があるのか。30代の自分をまるで想像できなかったのに、いつのまにかそこにたどり着いてしまった自分の生はどういう性質のものだったのか。漫然と過ごしていても一日は終わり、そして次の日がやってきてしまうので、僕は会社に行くのだが、その追われるような過ごし方がもはや到底許されるものではないとも感じている。それがとても怖い。いつか誰かがブログのコメント欄で「だから僕は自分に期待しない」と書いてくれて、それに随分救われたような気がしたけれど、それを自らのものとすることができただろうか。歳を取るのが怖いんじゃない、変わることができた、成長しているという実感が無いまま年齢が重なってゆくのが怖いんだ。僕はこの問題に対して「気づいたらそういうふうになっているだろうからその自覚ができるまで待とう」みたいなことを考えていたけれど、そんなことをしていたら僕はおっさんになってしまう。おっさんになると何が起こるか? 自分の物語ではなくて「誰かの物語」に登場してしまう。「達観して若者を導く親戚のおじさん」という都合のいい扱われ方をしてしまう。その前に、どこかで自分の主人公たる物語と向き合わなければいけないと思う。強迫観念めいて。



最期の終末。


パソコンに向かって、こういうことを叩きつける時間すらも取ることができなかった。できなかったのではなくてしなかった。それはすなわち、僕が以前重要だと思っていたことについてどんどんと真摯でなくなっているということだけれど、僕はその変化を成長とは呼びたくない。大事なものが移り変わってゆくということを大人になるなんて言い換えるのは、軌跡の切り捨てにも等しい。せめて踏み台にくらいしろよ、おれはね、青臭いという言葉すら勿体無かった、大真面目にどうしようもないことを考えていた頃のことを否定したくないんだよ。それを抱えて歳を取るには、今のおれはあまりに不誠実なんだよ。


人生という言葉を使うのが嫌いで、意図的に避けてきたのだけれど、今になってはじめて「時間がないって言ってるうちに人生が終わりを迎えそうだ」と思った。
どうして「ねばならない」かわからないけれど、生き急がねばならない気がしている。



(追記)
翌日考えたこと。
Don't trust over 30のおれ - 紺色のひと