紺色のひと

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海のむこうに/手向けの花が選べない

漁火が見えた。丘の高いところを走っているときは随分近くに思えたのだけれど、道路の海抜が低くなるにつれて光は水平線に吸い込まれていって、僕が思っていたよりもそれらはずっと遠い海の向こうの、水平線に近いほうに出た船のようだった。




まだ暑くなる前、休憩がてら海沿いの公園に車を停め、近くの林を散歩した。変わった形の岩が連なる海岸に腰を下ろしていると、近所の高校生なのか男の子がひとりと女の子がふたり、連れ立って話しながらこちらへやって来た。僕は自分が邪魔者のような気がして思わずその場を立ち去ったのだけれど、今の自分は高校生だった頃の自分から見て、邪魔な大人になっているのだろうかと考え、嫌な気分になった。




カヤックの群れが声を挙げて通り過ぎてゆく。妻と娘がそばにいる。

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このまま死んじゃったとしてもそれはそれでしょうがないのかもしれないと思ったことが助けるのをあきらめたことは意味しない。一所懸命助けようとして手をかけて、それで死んでしまったのならそれはそれでしょうがない――という意味とも違う。「このまま死んだとしてもそれはそれで仕方ないのかもしれない」と「助けようと何かをする」ことは、それぞれ心の別の場所にあるもので、だから、助けようとどれだけ手をつくしたか自分でよくわかってはいても、「それはそれで仕方ない」と思えないことだってある。白血病で死んだチャーちゃんのときがそうだった。だから「一所懸命やってあげたじゃない」という言葉は、本人に対しては猫が死んでしまったことの慰めにはならない。その現実の慰めにはならなくても、そういう風に気にかけてくれる人がいるということは、別の意味での慰めにならないというわけではない。
保坂和志『生きる歓び』

生きる歓び (中公文庫)

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心境を言葉にすることが難しい三度目の11月。
来年の二月頃まで心が休まらない日々が続くことになっている。なんとか乗り越えたい。