紺色のひと

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寮私小説『モーニングスター』1.寮の話を始める前に

僕は待っていた。


小説を「つかまえる」というなかなか素敵な言い方がこの世にはあって、あえてそれに倣うならば、この十日程の間、書き出しが向こうから僕につかまえてもらいに来るのを待っていた。
思えばニ年以上、寮で生活していた期間を含めればもっと長い間、この生活を書きたい、書かなくちゃ、と思い続けてきた気がする。思っていたのは事実だけれど、気がするというのは書きたいという欲求の波が一種断続的なもので長い間続かなかったことと、あくまで分割されたシーンを描いていただけで、ひとつの小説としての形には到底なり得ないものだったからだ。
小説というひとつの形にまとめることに決めてから十日間、僕はこれまで方々に散らばっていた場面や言葉、表情、景色を思い出すことに努めた。昔書いた文章をバックアップディスクから拾い出してみたり、友人が撮った当時の写真を眺めてみたり、写真を見ながら恋人に寮祭の思い出を語って自分で振り返ったり、友人たちにメールしてみたりしている。
そうやって、頭の中だけで続いてきた思い出や生活の記録を少しずつ整理して、言葉に置き換える準備を進めてきた。基本的に僕の思考は言葉で為されているから、これを即座にテキストとして出力できるような仕組みがもし存在するのであれば、明日にでもこのしようもない私小説を完成させることができるのだけれど現実はそううまくゆかない。浮かんでは消え、浮かんではまた消える情景描写を、タイミングを合わせて水面からかっさらうように僕の文章は書かれてきた。今回もいくつかの形にしたい場面だけ選り抜いて、あとはそれを書き始める――つかまえる瞬間を待っていた。
夜、晩御飯を食べ終わったあと、恋人の部屋に持ち込んだノートパソコンを開いてぼうっとしていた。しばらく聞いていなかったピアノ曲を流したりしているうちに、恋人は眠ってしまった。
なにを始めるふうでもなく、僕はぽちぽちとキーを叩き始めた。あ、これがそうなのかもしれない、つかまえたかもしれない、と思いながら、とりあえず指を動かすことにした。


とにかく僕はこうして書き始めたのだけれど、小説の始め方としてこのやり方が可とか不可とかそういうことを考えるつもりは毛頭なかった。
僕の書こうとする衝動の原点が「思い出し遺すこと」そのものだからこそ、書く内容についての思い入れや、それを形にするまでのプロセスなしでは語り得ないと思っている――というのがその理由で、だからこそ僕はこうして、あの頃のことを思い出している今この瞬間のことを、あの頃に繋がる小さな記憶を、そして強い西日の中の遠くなる記憶を、書く。
目が冴えてしまって、しばらく眠れなさそうだった。




平成一九年の九月の末に実家を出て再び独り暮らしを始めた。大学を卒業して二年が経ち、自炊や洗濯、生活リズムといった、自分ひとりで暮らしてゆくことで得られる感覚を忘れてしまいつつある焦燥感がそうさせたと言ってもいいと思う。
他のわかりやすい理由は、弟が絶えずつけっぱなしにしている居間のテレビの音が煩わしかったということだ。
職場の近くの学生ばかりが住んでいる1Kの安アパートを借りて、ベッドを持ち込み、古道具屋でがたのきたサイドテーブルを探して、狭い部屋にどう荷物を詰め込むか考えてみたり、また中華鍋を買って野菜炒めを作ってみたり、自分の生活をゼロから形づくってゆく過程をなぞるように新たな生活を始めたのだった。
完全にひとりで生活するのは十八歳の頃から数えて六年ぶりということに気づいて自分でも驚いた。
ひとりと言っても大学一年生だったあの頃は路上で歌っていた相方や同じ学部の友人が訪ねて来たり、恋人が転がり込んで居ついたり、あまり独り暮らしをしているという実感がなかったのだった。
その後二年生になってから卒業までの丸三年間僕は寮で暮らしていて、卒業してからは実家に戻っていたから、文字通り四六時中人間の気配がするのが当たり前のことで、独り暮らしの実感どころか誰かと一緒にいることに慣れてしまっていて、札幌のアパートで初めて眠った晩、僕は久しぶりに淋しいと感じたのだ。
ともかく僕は生まれ育った札幌で初めての単独生活をスタートさせた。引越し荷物を広げながら僕は、お隣さんに挨拶に伺うときになにを持ってゆけばいいのかについて悩んでいた。転居に伴って発生する問題といえば当然隣人の存在で、僕の頭の中では隣人は長い髪を後ろでひっつめた女子大生ということになっていた。
朝、僕がスーツでドアを開けるとちょうどゴミ出しに出てきた彼女がゆっくりと
「これからお仕事ですか? 頑張ってくださいね」
と微笑んでくれる。あるいは、残業で遅くなった僕がベッドに腰掛けてネクタイを緩め、もうビールだけ飲んで寝ちまおうかなんて考えているとドアがノックされ、開けると彼女が立っていて
「あの、作りすぎちゃったんで、よかったら召し上がってくれませんか」
と手に持った鍋を差し出すので、僕は鍋つかみの格子柄がかわいいな、なんて思いながらありがとう、と受け取り、あたたかい心持ちで鍋の中の筑前煮をつつく。鍋を洗って返すときに、僕は
「お礼と言っちゃなんですけど、よかったら今度ご馳走させてもらえませんか? 狸小路にシンガポール料理を出すお店があるんですよ」
とか言うと、彼女はちょっと考えるふりをしてから、いいですよ、と少しはにかんで答えるのだった。
女子大生かぁ、でももはや大抵の女子大生っておれより年下だよなぁ、しかし年下と言えど落ち着いたひっつめの女の子に勝る破壊力はなかなか存在しないし、メガネかけてたらさらに倍増するし、もうちょっと積極的に誘ってみてもいいんじゃないだろうか、などと考えながら僕は翌日の出張の準備をしていた。泊りがけで道東に向かうため、引越し早々アパートを長く空けることになるのだった。だったら早いに越したことはないし、手土産はまだ用意していないけれど、とりあえずご挨拶だけでも、と僕は服装を整えて部屋を出、向かって右隣の部屋のインターホンを押した。
「あ、隣に越してきた者ですけれどー」
「はあい、ちょっと待っててください」
果たしてスピーカーを通して聞こえてきたのは少し高い男の声で、戸惑う間もなく固まる僕の前のドアが開き、背の高い青年が現れた。見るからにフットサルやってます、という雰囲気を漂わせ、明るい茶色の髪をかき上げてどうも、と頭を下げた。
僕はなんとか気を取り直して口上を述べ、なにかありましたら、と頭を下げてその場を辞した。玄関に並んだスニーカーの虹色が目の奥に残ってちかちかとしているようだった。



2.それはまさに明けの明星



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