紺色のひと

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季節の記憶喪失

ライラックが咲く前に大通公園ライラックまつりが始まって、よさこいソーランが始まって、個人的に特に盛り上がりもなく終わって、ニセアカシアが乳白色の花と甘く強い匂いを中島公園にまき始めた。北海道神宮例大祭の夜店が中島公園に並ぶ頃、僕は出張で札幌に居なくて、次の週も出張に出ていたらアカシアの花が散っていた。完全に季節を逃がしている実感がある。春から初夏にかけて、僕にとってこの街の季節変化は花によって実感をもたらされることが多い。梅雨のように分かりやすい指標がないからだと思う。



山にエゾヤマザクラが咲く前、カツラの木が赤くぽうっと茶色の山肌に浮かび上がり、桜の桃色とキタコブシの白が目立つようになり、みるみるうちにヤナギが芽吹いて黄緑色が増え、このあたりでやっと街路樹にも芽生えの時期がやって来て、そこここの庭のツツジが花開いて、ライラックの低い木が紫やピンクや白い花を咲かせ、ニセアカシアの花が初夏の盛りを告げる――というのが僕にとっての夏の訪れのはずだったのだけれど、実感などする間もなく、毎週道内を泊まり歩いているうちに、この街には夏が来てしまった。妻が淋しがるわけだ。
週末、妻を置いてひとり、近所の体育館へ向かった。真新しい水色の自転車を漕いでいると、すぐに汗がシャツに染みてくる暑い日だった。畳張りの格技場でひとり、姿見とサンドバッグを相手に体を動かす。3時間くらいで帰ろうと思っていたけれど、準備運動後15分でバテた。あんまり情けないので、もうちょっと自分を奮い立たせて、2時間で切り上げた。プロテインを持って迎えに来てくれた妻と合流し、お好み焼きを食べて帰った。それは夏の夕方だった。



夏が来たら来たで僕には考えることがたくさんあるので、初夏までの、ふわふわしたポプラの種子のような気持ちはさっさと植えつけてしまって、気持ちを夏に切り替えようと、そういうこと。