紺色のひと

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おれにはなにができるか、という自問自答

腰を据えてなにかを読んだり書いたり、ということを、この数ヶ月あまりしなくなってしまった。結婚式の準備や仕事に追われていたと言えばそれまでなのだけれど、それでも僕のこれまでの生活からすればそれは異常なことで、出張先でぱらぱらと読む昔のライトノベルや、仕事から帰ってきて読む漫画の新刊とかで、種々の創作欲求や作品と真摯に向き合う姿勢を、僕は忘れてしまいつつある。自分の創作活動について、僕は自信を持ってこれだと言うことができない。なにかを為したい、つくり出したいという気持ちはあれど、それがどういう形を取って僕から生み出されるべきか、生み出されるのがいいのか、生み出したいのか、そういうことについて答えを出せないまま、私小説のかたちをしたものを書いてみたり、写真を撮ってみたり、詩を書いてみたり、歌をうたってみたり、だらだらと話す言葉をWebに流してみたりしている。
創作活動は、奔流であって欲しいと強く思っている。自分の感情や欲求が、正であろうと負であろうと、生であろうと死であろうと、ある種の強い力を伴って沸き出でるものであって欲しいと思っている。だから、そういう強さが伝わってくる作品が好きだし、そういう強さがストレートに伝わる若いひとの作品が好きだ。それで僕はどうだろう、というと、形を試してばかりで、「生み出したい」という欲求ばかりで、なにを僕から流したいのかが未だ定まっていないような気がする。僕の頭の中での流れが、すべて外向きではなく、巡り続けるものばかりのような気がしている。それで僕はまた問う、「おれにはなにができるか?」と。
実篤先生は言った。「私はひそかに/詩がかきたい/誰にもわからない/詩がかきたい/そしてそれをそっと/しまっておきたい」。僕が創作活動をするのなら、考えるべきは、なにができるかではなく、なにをしたいのかではないのだろうか。職場で何度か言われた言葉、「お前はなにがしたいんだ、なにになりたいんだ」。それは自分ではわかっていたけれど、仕事には関わりがないと思ったので黙っていた。
僕は生きたい。生き抜きたい。できれば幸せな気分で生き抜きたい。苦しみながらも死なずに生きたい。気持ちの通じ合うひとと、どちらかが死ぬまで生き延びたい。伴侶が死んでも、死ぬまで生きたい。生きるために生きたい。そういうプロセスそのものが僕の目的で、僕の欲求であると思う。生活すること、生きることが、僕の欲求であると思う。仕事なんて手段さ、と言い切ってしまうのはまだ自信がないのでできないが、そうなのだと薄々感づいてはいる。だから、僕がなにかを生み出せるとすれば、生活の中のものであればいいし、それがなにかの作品としての形を取るのであれば、僕の生に対する思いが通じるものであればいいと思う。それがなにかを、これからも考えていけばいい、今はそう思っている。
「おれは生きたい、だから、おれにはなにができるか?」と、脱皮間近の蛇に問いかけてみた。