紺色のひと

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生きる気力が足りないと、僕が錯覚したこと

「わかっているのだ。なにが足りないって、生きる気力だ」と僕は錯覚した。
この一年で、僕の生活は少しずつ変化してきた。「生き延びることから暮らすこと」へ、そして「ひとりからふたり」へ。それぞれについて考えることも、実行することも多くて、忙しかったり楽しかったりで充実していた。これが建設的な活動だと実感したし、自分がそういうことに力を注げること、そして恋人と協力して物事を進めていくことがなにより嬉しかった。
ただ、それにかまけて(と言ってしまってはあんまりだけれど)、暮らすのが精一杯になっていた、いや今もそうだ。身の回りのことが少しずつ安定してきて、心も平静に保たれることが多い。思考も停止しがちだ。
僕の行動欲求はないものねだりにある。心が平静であれば、荒れた状態を平静に保とうとすることを望むのだろう。けれど今の穏やかさを失いたいとかではなくて、ただ現状を打破しようとする子どものような心境なのだ。
動機はともかく、思考そのものが目的の思考に慣れた僕は、それが失われることによって、積極的に生きる気力そのものが減少したと錯覚した。

けれど、本当は、そうではなかった。

今まで、ひたすら自分の内面で考えを磨いてきたつもりの僕が、ようやく世界へのアウトプットを始めた。そういうことなのだ。
いかに生きるか。いかに暮らすか。いかに働くか。いかに過ごすか。これでもかと磨かれたはずの考えのなんぼかは現実に見向きもされず胸の奥に転がったままで、そうでないなんぼかは行動の指針になったり、生活の基盤になったり、呼吸の助けになったりしている。
マイナス面での思考、例えば働くことや、着るもののこと、自分の外見のこととか、コンプレックスの種なんて自分の中にいくらでもある、そういう自覚はあるのだけれど、芽が出てみたら思ったより割り切ってしまえそうだ、というふうにも感じている。少なくとも、そういう感じ方をできる程度には、僕は大人になっていた。
そうだ、僕は大人になっていたんだ。生活とか、世界とか、そういう言葉を使うことに抵抗を感じなくなったことが、なにより大人の証になるのだから。

ここ10年、明るかったり煩かったりうざったい奴だったりした僕が、自分の中だけで考えていたたくさんのことを、そろそろ自分と、そして誰かのために使いたいと思った。劇的になにかが変わるわけじゃないけれど、この世界での生活のためにやれるなら、うまくやってゆけそうな気がする、いろいろなことを。

今日、アパートに帰ったら久しぶりに髪を刈ろう。少し眺めの9ミリ坊主にして、明日からの出張の支度をして、恋人に会いに行こう。僕はもっと優しくなれるはずだ。そして、僕たちの生活を、きっと美しいものにできるはずだ。そういう根拠のない自信がゆっくりと、そして確かに湧き上がってきている。