紺色のひと

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記憶の発掘作業

昨晩ねとらじに繋ぎながら、なにかのネタになるかもと部屋の奥から昔の手帳群を引っ張りだした。以前見たのはちょうど一年くらい前だった(紺色のひと)。いつの間にか最初のノートの最初の日付から10年が経過していて、こんな僕にも10年続いているものがあったんだ、と少し嬉しくなった。
のも束の間で、うっかり開いたそれらからは10年間の、当時は澄んでいると思っていたのかもしれないけれど既に腐って濁った思考の膿で、それらは自分のものであるということが嫌というほどわかるから、いとおしさ以上にその事実が重たかった。
いつか恋人と笑って見ることができるのかとか、子どもに見られて慌てるとか、おれにもそういう頃があったんだよとある程度の距離を置いてみることができるのかとか、理想的な未来を思い描いてはみたものの、「以前書いたものが漫然とそこに在る」という事実があまりに強く僕を打ちのめし、はうはうのていで回線を切った。
参考までに紹介すると、一番ひどいのは高校2年のときのノート「ラブひで」で、友人たちと筆談をするだけに飽き足らず、クラスの女子のランキングをつけたり、クラスの女子のひとりひとりの念能力を考えたり、当時好きだった「ラブひな」の表紙をパロって(というよりむしろ切り抜きをつかって)変な文章を作ったりしていた。お見せできないのが残念である。リスナーのKさん(男性・新潟県)が悶え苦しむ僕の声を聞き「邪気眼」とコメントしてくれたけれど、まさにその通りなのだった。