紺色のひと

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ゆずと19と敵の敵

よく覚えている出来事がある。例によって前置きが長くなるけれど書く。
大学一年の頃、よく山形駅の路上に出てギターを弾きながら歌っていた。横には相方キムラがいた。彼は口達者な関西人で、裏声を使って歌うのがうまかった。ある種劇的な出会いをした僕たちは音楽の趣味も、おまけに背格好も髪型もメガネもキモオタの真似をさせると必要以上にキモいところも似ていて、一緒に歌うのはもはや必然だった。当時、彼とのリンクをよく感じたのは、嫌いなものがよく似通っているということだった。音楽以外の、例えば好きな鞄のメーカーや小物への金使いなんかも驚くほど似ていたけれど、憎むべき敵が共通であるという認識はふたりの距離を急速に近づけた。キムラはよくこう言っていた。
「19が世に出てきたせいで、おれ(『れ』にアクセント)があいつらのファンみたいに思われとる。『そのギター19が使ってるやつでしょ?』おれが使ってたのをあいつらが使っとんのや!」
彼が使っていたエレアコはアプローズ・バイ・オベージョンモデルのグリーンだった。ボディの上のほうに小さな穴がいくつか開いた特徴的なデザインのあれだ。高校生の彼はなけなしの小遣いを貯めてギターを買い、アコースティックバンドを組んでいた。サニーデイ・サービス解散直後のあの時代、関西の高校生で彼らのコピーバンドをやっていた人間がどれだけいただろう。北海道の僕の周りはGLAYミスチルばかりだった。ともかく彼は19が嫌いで、彼らの曲もボーカルの前後運動もキャップの被り方すら嫌いだった。
対する僕は、中学生の頃から好きだったゆずに嫌気が差していた時期だった。忘れもしない、修学旅行先の京都でまで彼らのアルバム「トビラ」を買うくらい好きだったけれど、岩ちゃんの歌詞にしきりに登場する「本当の」「本当の」という日本語が鼻について堪らなくなっていた。お前はなにをそんなに怯えているのだ、どうしてそんなに言葉とか心の本物を求めているのだ、と考えると彼らの歌が途端に安っぽく思えて、ある日を境に一切聞かなくなってしまった。
ゆずと19。二十世紀最後を飾る彼らの活躍は、日本の路上ミュージックシーンに多大な影響を及ぼした。彼らのヒットから10年が経とうとする今も、狸小路*1ペデストリアンデッキ*2から彼らの曲が消えることはないだろう。そんな彼らを嫌いと言い切ることから、僕たちの路上活動はスタートしたのだった。僕たちは「甲斐性無」というデュオを結成した。奇しくも彼らと同じフォークデュオだったが、掲げた看板には「ゆずと19は一切歌いません」と書き切り、サニーデイスピッツのアルバム曲ばかりを、あるいは二次会帰りのサラリーマンから小金を誘い採るべく70年代のフォークを歌ったりした。
月日は流れた。ニ年次に上がると同時にキャンパス異動が待っていた僕は山形市を離れ、キムラと駅に出る頻度は半年に一度くらい、ふたりの予定が合ったときくらいになっていた。あれは3年になったばかりの頃だったように思う。僕とキムラは久しぶりに会い、例によって音楽や猥褻図書の話をしていた。あの時は確か、ZONEとホワイトベリーにみるバンドルの立ち位置の差というようなテーマで、また彼の好きだったまるごと何某という猥褻漫画家の話をしていたのだった。唐突にキムラがこう言った。
「お前、丸くなったなぁ」
彼が言うには、以前の僕はもっと刺々しくて、嫌いだと思ったものに対する不満を言葉としてぶつけていた、今のお前にはそれがない、と。心当たりは多々あったけれど、僕は言葉を濁した。
きっと、これもきっかけを辿ることができるのだろう。中学から今まで、自分の心の大きな動きはすべて持ち歩いていたネタ帖に残っている。大学に入ってからなら尚更だ。「なぜ嫌いなものについて口をつぐみ始めたのか?」それを辿るのはさほど難しくはないと思う。けれど、今僕が問題にしたいのは原因ではなくて、この先僕がどの程度、そしてどうやって心情を露呈して、さらには表現してゆくかということだ。もう少し、考える必要がありそうだ。

*1:札幌における路上ミュージシャン(笑)らの主な活動場所。繁華街をぶった切る800メートルほどのアーケード街である。

*2:山形市における路上(以下略)らの主な活動場所。山形駅直結の吹き抜け階段は夜も明るい。