紺色のひと

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僕たちの音楽だった

実家から、昔買ったミスチルのアルバムを引っ張りだしてきた。中古を漁るように買っていた中学生の頃のものだと思う。

深海

深海

周囲が流行の音楽を聴くようになった小学校6年生の頃、「名もなき詩」がヒットした。中学に入りバンドブームがやってきて、みんなミスチルやグレイの曲を練習していた。急くように友人たちはカラオケに通い、僕もそれらの歌をなんとなく覚えた。昼休みの放送で、当時出たばかりだったアルバム「BOLERO」の曲ばかりかけた。高校受験の勉強をしながら、机の下にCDラジカセを隠して「DISCOVERY」を聴いた。スピッツミスチルばかり聴いていた時代が僕にも確かに存在したのだ。
大学生の頃、ふとしたきっかけから彼らの曲を一切聞かなくなった。3年程前のことだ。理由はいくつかあって、知ったかぶりへの嫌悪からサラリーマン心理を歌う彼らの曲に共感などできない、と思ったことや、当時ミスチルばかり聴いていた友人の言動が鼻につくようになったことがそうだ、と記憶している。ともかく僕は彼らの曲を聞かなくなった。そして時間が流れ、僕はサラリーマンになり、恋人と別れ、また恋人ができた。
出張に出た車の中でCDをかけてみると、歌詞が言葉として浮かび上がらないのに口をついて出てくることに気づいた。カンジョウ、とかジョウチョフアンテイとか、子どもの頃はなんのことだかわからなかったことがわかるようになっていた。でも、今の僕がこれらの曲を初めて聞いたとして、今のような気分になったかはわからない。ただ言えるのは、新しいものに貪欲だったあの頃に出会った音楽は、確かに僕のひとつの時代の糧となっているということで、それが時間を超えて今の僕になにかを感じさせることがあってもいい、と思えたのだった。