紺色のひと

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つかまえること

しばらく待っていた。「小説をつかまえる」というなかなか洒落た言い方がこの世にはあって、あえてそれに倣って言えば、ここ10日程書き出しがやってくるのを待っていた。
思えば2年以上、寮生活中を入れればもっと長い間、書きたい、書かなくちゃ、と思い続けてきた気がする。思っていたのは事実だけれど、気がする、というのは書きたいという波が一種断続的なものであることと、あくまで分割されたシーンを描いていただけで、ひとつの小説としての形には到底なり得ないものだったからだ。
完成を目指し始めて10日間、これまで方々に散らばっていた場面や言葉、表情、景色を思い出すことに努めた。昔書いたテキストをバックアップディスクから拾い出してみたり、当時の写真を眺めてみたり、写真を見ながら恋人に思い出を語って自分で振り返ったり、友人たちにメールしてみたりしている。
そうやって、頭の中だけで続いてきた思い出や生活の記録を少しずつ整理して、言葉に置き換える準備を進めた。自分の思考は言葉で為されているから、これを即座にテキストとして出力できるような仕組みがもし存在するのであれば、明日にでも完成させることができるのだけれど現実はそううまくゆかなくて、浮かんでは消え、浮かんではまた消える情景描写を、タイミングを合わせて水面からかっさらうように僕の文章は書かれてきたから、今回もいくつかの形にしたい場面だけ選り抜いて、あとはそれを書き始める――つかまえる瞬間を待っていた。
昨晩、晩御飯を食べ終わったあと、恋人の部屋に持ち込んだノートパソコンを開いてぼうっとしていた。しばらく聞いていなかったピアノ曲を発掘したりしているうちに、恋人は眠ってしまった。
なにを始めるふうでもなく、僕はぽちぽちとキーを叩き始めた。あ、これがそうなのかもしれない、つかまえたかもしれない、と思いながら、とりあえず指を動かすことにした。
とにかく僕はこうして書き始めたのだけれど、小説の始め方として可とか不可とかそういうことを考えるつもりは毛頭なくて、それは僕の書こうとする衝動の原点が、「思い出し遺すこと」そのものだからこそ、書く内容についての思い入れやそれを形にするまでのプロセスなしでは語り得ない。書くことを始めてからなにも進歩していないけれど、これが僕にとっての書く、書き記し遺すことなのだろうと思うことにした。なにはともあれ、スタート。