紺色のひと

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彼らとの間に双方向の友情はあり得ない

三次会が終わり、さぁ次はどうしようかというテンションが周りを包んでいる中、新郎に別れを継げて場を後にした。新郎の高校・大学時代の友人や新婦の友人はあらかた解散し、残っているのはほとんどが小中学校のときの友人たちだった。分ければ僕もそこに分類される。披露宴では見なかった顔もちらほら混じっているから、誰かが呼んだのだろう。ともかく僕は家へ帰ることにした。
僕はいつもこうだ。いろんな意味で、いつもこうだ。
僕は彼らにとってなんなのだろう、そして彼らは僕にとってなんなのだろう。そういうありきたりな言葉で表現される疑問が僕を満たしていた。彼らとの付き合いは長い。6歳の頃から知っている奴すらいる。けれど当然のように、僕は彼らのなにを知っている訳でもないと思っているし、僕のなにを知っている訳でもないと思っている(彼らが実際どう思っているかは知りようがないけれど)。
僕は、主に過去に依って語られる彼らと、昔と同じ顔で話すのがとても難しいことで、さほど楽しくないということに今さらのように気づいた。あいつが小学校の同級生とやった、えぇえお前それは引くわ、あいつはありぇねだろ、だってあいつだぜ? 僕は二次会の中心となっていたその話題を心の底からどうでもいいと思いながら、とりあえず笑っていた。
「小学校と中学校の同級生」で括られる僕と彼らに、友人だの知人だの幼馴染だのという別の関係性をもった言葉を与える必要などないことは判りきっているつもりだ。だいいちそんなこと考えなければいいのだ。そうすれば彼らのように言葉をかけ合えるかも知れない。
僕は彼らになにを求めているのか? 彼らは僕になにを求めているのか? 答えはわかっている。多分、お互い、なにも求めていないのだ、どのような意味でも。彼らの誰ひとりとして、ああいう昔を懐かしむ場において、僕の必要性など感じていない。僕は呼ばれれば行くだけだ。けれど、多分かまって、あるいは仲間に入れて欲しがっているのだろう、あの頃叶わなかったことを今さら求めるように、情けないことに。ただ、それを主張しようとは思わないし、主張しても通るとは思っていない。昔叶わなかった願いが、昔のままで皆と接する彼らに受け入れられるものか? 否だ。そして負け惜しみなのだろうけれど、彼らの話題に入ることは、今の僕にとってさほど重要ではないように感じる。要はお互いにいなくても問題ないだろう、ってことだ。
「友情は見返りを求めない」という言葉が真であるとすれば、僕と彼らの間にあるものは友情ではないと言える。偽であるとしても、おそらく双方向の友情ではないだろう。真でも偽でもない、真面目に考えることすら馬鹿馬鹿しいことだとしたら、まぁ、いいんだけど。


帰り道、公園の大きな池のほとり、月明かりでこういうことをノートに書いた。情けなくなって恋人に電話してみた。どう見てもいじめられっこの卑屈な言い訳だよな。くだらねぇ。本当にありがとうございました。