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紺色のひと

思考整理とか表現とか環境について、自分のために考える。サイドバー「このブログについて」をご参照ください

議論の余地しかない(議論ニガテについて)

思考

大変なことに気づいてしまった。なんだかいつも大変なことに気づいているような気もするが、それだけ僕は自分のことばかり考えていて、そのうえ自分が気に入らなくておまけに懐疑的だということを表している。
大変なこと、それは、僕はここ数年議論らしい議論をした記憶がなく、そればかりか議論というものに苦手意識を抱いているようだ、ということだ。確固たる自らの意見を他人のそれと戦わせたり、あるひとつの議題について意見を交わしあったり、ということをしていない。最終的に身を引くのが常になりつつある。自分の中で「議論」というものがどう定義されているか明確ではないのだけれど、記憶を辿っても高校卒業前が最後のような気がする*1。いいのか悪いのか、口は少しまわるほうであるのだけれど、口頭において議論を進めようとすると自分の考えがまとまらず、筋道を立てて説明することができないことに気づく。おまけにWeb上などで議論がなされているのを読んでも、論理的な方法論に乗っ取って理解しようとするとやけに時間がかかる。
自らを省みるに、この「議論ニガテ意識」の原因として考えられることは何点かある。大きく分けると、僕自身の性質の変化と、環境の変化で説明がつく。まとめてみよう。

  • 性質(性格)の変化
    • 大学入学後、「他人への批判」を無条件に嫌うようになり、口外することが少なくなった。別に聖人になったわけではなくて、ただ思ったことをすべて口にするのが格好悪いなと思うようになったのだ。
    • 「直情径行」を座右の銘としていたことを恥じるようになった。
    • (悪い意味で)「他人は他人、おれはおれ」と思うようになったため、意見の衝突が少なくなった。
  • 環境の変化
    • 大学では体育会系の部に所属していたうえ、「いかに体をうまく使うか」について知識や技能を収集することに力を注いでおり、他者と言語による折衝の機会を持とうとしなかった。
    • 専門分野においても、経験的な技術や知識の蓄積(投網の振り方とか)に興味が傾いており、学術的なディスカッションを積極的に行おうとしなかった。対して「交流」はとても多かった。
    • (良くも悪くも)考え方が近い友人に恵まれ、お互いについて感覚的に「なんとなくこういう奴」という理解だったため、互いの思考のやり方や持っている意見の詳細について話し合うことをしなかった(印象に残っていないことがそれをうかがわせる)。
    • 大学に入学後、知識や考え方が大きく異なる人間およびかなり近しい人間の二タイプに触れ、「反論」よりも「吸収」あるいは「同調」を選択することが多くなった。
    • パソコンがひとり一台に普及し、インターネットを日常的に利用するようになった。なお、僕が初めて携帯電話を持ったのは大学1年の夏、インターネットに触れたのは高校3年の1〜2月である。

ところで以上のようなことは主にアカデミックな内容に限定している。そりゃあ、住んでいた寮の掃除当番制をよくわからない理由で変更しようとする議題には反対もしたし、劣情を刺激される項目(訳:おれがなにフェチであるか)について友人と唾を飛ばし合いながら話もした。ただ、自分の中の価値観として知識や知恵というものが非常に高い地位にあることを考えると、やはり大学においてそれをしなかったというのは、結果として大きなマイナスであったように思う。
多分、自分が議論の場に乗るに値しないとどこかで感じているのだと思う。上に挙げた変化が生じたのは、僕の身の周りにインターネットが普及した時期とほぼ一致する。それまでどれだけ狭い価値観の中で生きてきたのよ、という話になってしまうけれど、自分の考え方や知識がいかに矮小か、ということを最初に思い知らされてから、もしかしたら萎縮しているのかも知れない。もちろん、自分の未熟さを知る場面は、Webの外でも非常に多かったのだけれど。
以前、「僕は高校を卒業してから生まれた」と書いた(しはいからの! - 紺色のひと)。その気持ちは今も変わっていなくて、それまで天狗になっていた自分への後悔や、他者への蔑みがいかに愚かだったか、ということに対する皮肉のつもりだ。それとなく気づいた6年前、根拠のない自信に満ちていた僕は姿を消した。自らの不甲斐なさから知識や技術、体力への貪欲な欲求がより強くなり、そのために対人関係において肯定を前提とするようになった。
まとめと考察。
議論や議論の中で解決を求めることは、今の僕が非常に苦手としていることだ。その理由としては、およそ6年前の環境の変化、およびそれによって引き起こされた僕自身の性質の変化によって、他人と意見をぶつけあうこと自体をしなくなった(あるいは避けていた、機会が少なくなった)ことが考えられる。
一方、議論において必要な論理的思考は、科学と併せ僕が求めてやまないものだ。「議論ができない、他人の交わしているやり取りを見ても理解できない」というのは、今の僕に論理的な思考およびそれを理解する力がまったく欠けているということに他ならない。科学を志しておいて、おまけにサービス業にあってこの能力が欠如しているというのは非常に心許ない。理想の自分失格である。ので、今後は「議論ニガテなのでどうにかしたい」「あと意見をまとめて話せるようになりたい」ということを胸に刻みつつ生きてみようと思う。まずはネットバトル(死語)とネトラジ(公開自慰式リハビリ)だな! ガハハ! 我ながら哀しくなってくるな!

*1:個人的には黒歴史に認定済みであるその内容は、ある意味社会的な活動に関わるものであった。あーやだやだ。

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