紺色のひと

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登場人物になりたかった

僕は、いやおれは、作者になりたいのではなかった。登場人物になりたかったのだ。少しずつだけれど、確実にわかってきた。おれはこの世界で、このまま、登場人物になりたかった。
これはあるひとつの真実だ。このことに気づいておれは愕然とし、はっきりとうなだれている。理由は定かではない。そしてこの思考が形となって出てきたことは、おれにとってひとつの時代が終わったに等しいと言っていいくらい大きなことだと思っている。
自分に興味がある。自分の思考を言葉で表そうと思い、それを始めた。自分のことをもっともわかっているのはおれ自身だと思っている。そして、今のおれのことを何かしらの形にしたいと望んでいた。思い返せば高校生の時分、初めて書いた小説が私小説だったのは、至極当然の流れだったわけだ。答えは八年前に出ていた。そして、そのときからおれはなにも変わっていない。
暗く汚れた寮で暮らすおれを思い出した。着流しで小さな町の裏路地を歩いているおれを思い出した。カメラをぶら下げてふらふらしていたおれを思い出した。ノートを取り出してはなにかを書きつけるおれを思い出した。甘いものを食べ続けるおれを思い出した。誰かに書かれるために自分の行動すべてを為していたのではないかとすら思えるほど、こうして書き出したことは、確かに自分のことで、同時にあまりにキャラクター然としていて、できすぎている。登場人物であることに気づいてしまった物語の中のひとの気持ちはこんなふうなんだろうか。
自分の思考や好きなことを体系付けて整理したいとずっと思っていた。自分の根源的な欲求を表す言葉があれば、今の自分を形成するものを説明できると思ったのだ。「おれはこの世界で、このまま、登場人物になりたかった。」その疑問に答えることができた今、今後の自分がどういった思考をしてゆくのかが、また興味深い。
備考。
あえて書き残しておくけれど、おれは「世界が誰かによって書かれた演劇のようなものである」とか、「登場人物として動かされているに過ぎない」ということはこれっぽっちも考えていない。ただ、自分が誰か(おそらく、おれ)の書く登場人物なのであれば、望んだことを叶えてしまえる今の状況にもある程度納得がゆくし、そういう都合のいい考え方を信じてみたいというだけだ。自分でもわかりにくいと思う。
もうひとつ言えることがある。おれにとって既に「もしも」は用を成さない。願えば叶う。努力論とかではなく、もしもの未来を願ってないものねだりを続ければ、叶えることができる。これについても再考の必要がある。