紺色のひと

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あの花の名はなんだ

大気に別れの匂いが漂う。いってらっしゃい、と恋人に手を振り、僕は自転車にまたがって広い大学の構内を走った。何度か袴姿の女性とすれ違って、昨晩飲んだ友人から明日が卒業式だよ、と聞いていたのを思い出した。僕はこの大学の生徒でもなんでもないけれど、どうしても思い出さずにはいられなくて、自分の卒業式の記憶をなぞった。友人が答辞の最後に于武陵の「勧酒」を朗じて、彼の声に拍手で応えた後、「さよならだけが人生ならば また来る春はなんだろう」で始まる寺山の詩を叫びたかったんだ、と気づいた。彼はきっと迷惑そうな顔をするだろうと思った。
周りで結婚の話がちらほら出始めてきている。あの頃の連中でもふたりほど、今年か来年には、と聞いた。別のひとりは恋人のいる街に引っ越そうかと考えている、と言っていた。高校時代の彼女をずっと引きずっていたあいつからは、相変わらず女性の影が見えない。そして僕は、ええと、とにかくみんなが時間を過ごして、2年分あの頃の未来にいる。
友人の定義なんてことを改めて考えるつもりはない。けれど、ひとによっては同胞とか親友とか、あるいはもっと強い間柄として扱うような気さえするけれど、僕にとって間違いようのない事実は、彼らとは同じ釜の飯を食った仲で、寮生で、仲間で、連中で、クラスメイトで、これ以上ないくらいの友人だということだけだ。今、すごく奴らに会いたい。
強く明るい光を含んだ写真を撮ることができると、本州日本海側の眩しい西日を思い出す。光の中にはもういないけれど、おれはちゃんとあの頃みたいに笑うことができているだろうか?

ご卒業、おめでとうございます。