紺色のひと

思考整理とか表現とか環境について、自分のために考える。サイドバー「このブログについて」をご参照ください

朝日のベッド

家のこととか、地震のこととか、書くべきことは多い気がする。何度かキーボードに向かい合ったけれど、ダメだった。
自分がブログやツイッターに書くことを通じて、社会になんらかの貢献をしようとか好影響を与えようとか、そういう気持ちを抱いてしまうこと自体に嫌悪感を抱いている。やれクマだニセ科学対策だと問題意識を維持していた際は、これらに対して自分が何かできるだろうか、という強迫観念のようなものを感じていたようにも思う。ものを書くことのモチベーションを維持できない今だからなおさら、そういう「役に立つかも」という外的要因に頼ってしまいそうなのが嫌なのだ。具体的に書くと、「このタイミングで被害の少ない観光情報をまとめて紹介したらある程度読まれるだろうな」と思ってしまったことに対して、「誰かの役にも立つ」という言い訳がすぐに用意できたことが気に入らないのだ。

そういうわけで、地震に関連した現状報告とか、そういうのはなしにする。


親戚に不幸があって急遽妻が帰省したので、昨日と今日、僕は子供たちと三人で過ごした。こういうことは初めてではなくて、仕事の時間を調整すれば普通に対応できるので、それ自体はなんということもない。昨晩は寝かしつけの後、子供部屋から抜け出して自分の寝室に移動したものの、そのまま眠ってしまったようだった。
一度寝付くと朝まで目が覚めない娘と違って、息子は眠りが浅い。毎晩、夜中に子供部屋を起き出して、僕たちの寝室に泣きながら転がり込んで来る。妻がいなくてもそれは変わらなくて、夜中の3時頃に息子がやってきた。今日は泣かずにベッドにもぐりこんできたが、僕も眠かったので横になった息子に毛布を掛けるくらいしかしなかったように思う。
朝、眩しくて目が覚めた。息子はベッドの端っこで眠っており、僕を挟んで反対側では珍しく、寝室に入り込んだ猫が丸くなっていた。夏至であることが関係しているのか、東の小さい窓から真っすぐ朝日が差し込んできていて、とても尊い眺めだった。妻にも見せたいと強く思った。

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逃亡前夜

好きな漫画に、大学を卒業した主人公が定職に就かず、バックパッカーとしてその日暮らしを送る場面がある。田舎で退屈な高校生活を送る主人公は、都会から越してきた女の子と出会い、自分の暮らす土地の魅力に気づき、それでも外に出る決意を固める。彼が高校を卒業し、進学先の都会の雑踏に足を踏み入れていく後ろ姿で本編は終わる。その後日談として語られるのが、先の放浪生活なのだった。
僕はとうにその年齢を過ぎ、彼よりずっと身の回りも固まっている。一世一代の決心とも言える移住から、なんだかんだで仕事も見つかり、もうすぐ新築の家も完成する。はっきり言えば、逃げ場はもうない。何かの拍子に、しばらくふらりとひとりで旅行に行くことは、まあ今の自分の生活を考えればとても難しいだろう。そういう憧れを抱きつつも、大切な妻との暮らしとか、子供たちのこととか、みずからの生活を構築することを選んだ経緯が現時点であるわけで、そこに不満はない。主に妻のおかげで、とてもうまく行っているとさえ思う。
それでも思考の逃げ場というか、常に頭の中には「このままどこかに行ってしまえるように」という意識がある。もうどうしようもなくなったら逃げてしまえばいいんだ、と意図的に思うようにしている……とも言い換えることができるかもしれない。自分を追い込みすぎないためのセーフティなのだろう。それでも、歳を重ねるごとに、その想像はどんどんと具体化する。ここにひとつひとつ挙げはしないけれど、着ていくシャツだとか、持っていく小道具だとか、季節や土地ごとの条件だとか、頭の中の僕の姿は確かな姿をとりつつあるのだ。何度も繰り返しているのだから当然だろう。

できるはずのないことを想像するのは楽しい。いざとなればおれも、と思うことは、僕の日常に確かな足場を与えてくれる。帰る場所があるからこその想像なのだとわかっているし、たとえ旅に出ることがあっても、それが想像の代替でしかないことをわかっている。
ずっと前に遊んだPCゲームで、放浪の旅を続ける男が黒い長袖のVネックを着ていたのをなぜか思い出す。おれはああはなるまい、好きな服で、たしかな足取りで、かえってゆく場所への寄り道のために逃げるのだと、今日も逃亡前夜の夢想にふけるのだ。

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